那須与一の墓所、那須神社

昔から、私の勤める案内所には珍しいお問い合わせが時々あります。
ここもその一つで、今回は、「ここに参拝するとシモのお世話にならない」という不思議な言い伝えのある「那須神社」を訪れてみました。山陽電車「板宿」駅で下車して市バス5系統に乗り、約15分で「那須神社」に着きます。
わずか二車線の狭い道路は、通称”三木街道”(県道神戸三木線)ですが、行き交う車両のあまりの多さにびっくりしながら道路をなんとか横断して、「那須神社」にお参りしました。
いかにも地元の方々が守ってこられたという風情の、素朴な神社です。
那須与市宗隆は、下野国(栃木県)で生まれ、わずか10歳で弓を射る才能を得ました。源平合戦に際して、12歳で源義経から源氏入りを誘われ、数々の戦陣に加わりました。
屋島の合戦では、平家方の扇に弓を命中させたという逸話で一躍注目された若武者です。
晩年に、与市は源平合戦で亡くなった武士たちを弔う旅に出ましたが、その道中で「中風」を患い、この地で亡くなった、と伝えられています。半身不随になり、村人からシモの世話になりながら息を引き取った与市。
村人が自分と同じようにならないように、との強い思いを抱いていたのては、ということから、いつの間にか「シモの世話をかけすに往生できる」という言い伝えに繋がったようです。
9月7日の与市の命日や月命日には、下着、はんこを押してもらう人もいたようですが、今ではその数も少なくなったようです。那須神社の向かい側に墓所があります。

2021-12

隠れた紅葉の名所〜徳光院

 

桜の頃ほどではありませんが、秋が深くなってくると、どこか紅葉狩りに行きたいなぁと気持ちが少し騒ぎます。
テレビや新聞などでどんなに美しい紅葉や黄葉を見ても、奈良や京都まではと、なんとなく億劫になってしまいます。
そこで今回は、中央区にあるのにそれほど知られていなくて、思いたったら歩いて行ける、紅葉の美しい所をご紹介したいと思います。
新神戸駅の下を通り抜けて、すぐ背後にあるレトロな砂橋(いさごばし)を渡り、布引の滝に向かって坂道を登って行きます。その途中に「徳光院」はあります。
この付近は砂山(別名丸山)といわれ、生田神社が最初に祀られていた場所でした。が、古い時代に大雨で流され、今の位置に移ったと伝えられています。
徳光院は、1905(明治38)年に川崎造船所の創業者、川崎正蔵が建立した臨済宗の寺院で、境内にある多宝塔は国の重要文化財に指定されています。
新緑の頃の青紅葉も、なんともいえない風情がありますが、やはり紅葉の頃は見上げるような大木が、朱色や黄色にお化粧しているかのような様は、豪華で見事です。
そのまま見とれながら滝の方に足を伸ばし、4つの滝の音を聴きながら下山するのも楽しいでしょうか。
こんなに近くで、”錦繍(きんしゅう)”を味わうことができるのも、神戸ならではの贅沢かもしれません。

神戸市中央区葺合町布引山2-3
電話078-221-5400

2021-11

元町商店街のスズラン灯

今年は、季節が思いの外駆け足で、あっという間に秋がやって来てしまいました。簾や風鈴や扇風機と同居したまま、慌てて羽毛布団を引っ張り出しています。
こんな夕暮れ時の私の楽しみは、灯りです。
西の空に落ちていく日の残照を眺めながら、三宮から元町まで歩き、大丸前のスクランブル交差点から眺める「市章」と「錨」の電飾もその楽しみのひとつです。1933(昭和8)年に第一回みなとの祭りが開かれたのを記念して、錨山と市章山が点灯され、初めて錨と市章が夜空に輝きました。以来、裸電球からLEDになりましたが、雑踏の中でふと見上げて目に入ると、あたたかい気持ちになる電飾です。
さて、交差点から元町商店街に入ると、まずアーケードを見上げます。東西約1.2キロの元町商店街には、約200基のスズランの形をした街灯「スズラン灯」が設けられています。
江戸時代、この商店街は京都から九州への西国街道でした。1868年に神戸が開港されてから6年後、1874(明治7)年に”元町通”と名付けられました。その後元町商店街は様々な時代の波にもまれましたが、京都についで日本で2番目にスズラン灯を設置することで、明るい商店街になりました。昭和5年に封切られた映画「神戸行進曲」には、主題歌にスズラン灯が歌われているほど、元町商店街のシンボルとなりました。
元町一番街と3丁目から6丁目まで、花やランタンなど五種類のスズラン灯がともっています。
元町商店街のスズラン灯に見守られながらのそぞろ歩き、神戸ならではの楽しみ方の一つです。

さんきたアモーレ広場、リニューアルオープン

「パイ山」とか「でこぼこ広場」という愛称で親しまれてきた「さんきたアモーレ広場」は、お隣の「神戸阪急ビル」の建て替えに伴って、2016年から閉鎖されていましたが、いよいよ再整備を終えて5年ぶりにオープンします。
前の広場は1985(昭和60)年に、地下鉄三宮駅が作られるときに整備されたもので、屋台が出されたり自転車が放置されないように3つの小さな山が設けられていました。その当時、会社のオリエンテーションなどで、なぜ「でこぼこ」があるのか、という質問が出されていたことを記憶しています。
また、数年前に正式名称の公募をした時の審査員の一人として、「さんきたアモーレ広場」という命名にも立ち会ったこともあり、思い入れがあります。
待ち合わせの名所として、一日中老若男女問わず多くの人がこの広場を利用していましたが、道路の一部だったので活動やイベントなどはできませんでした。
今春オープンの予定が、コロナ禍で延びていて、10月上旬には、お披露目される予定になっています。
若き女性の建築家のデザインによる新生「さんきたアモーレ広場」は、前よりも多様な活用ができるような広場を目指しているとのことで、まずは、パフォーマンスイベントも企画されているようです。
リニューアル後は、かなり広くなって、西側のさんきた通りともバリアフリーで繋がることになります。
三宮での待ち合わせ、楽しみです。

2021-9

ポートタワーは「鉄塔の美女」

高さ108メートルの「神戸ポートタワー」は、神戸開港90周年を記念して1963(昭和38)年11月に開業しました。
その当時の原口市長が、オランダのロッテルダムにあった「ユーロマスト」というタワーに刺激を受け”ハイカラな神戸の街にふさわしい斬新なデザインのタワーを”という視点から、世界に類のない中央がくびれた鼓形のデザインが選ばれました。
エレベーターの周りに、直線の鋼管を斜めに組み合わせて美しいくびれのラインを作る、というのは、設計者の多田さんが籐の椅子からヒントを得た、といわれてます。まっすぐのままのパイプできているあの美しいウエストラインを眺める度に、私はこのタワーです生まれた秘話に感動しています。
当初銀色にする案もありましたが、お天気の悪い日など周囲となじみ,見えにくいなど航空法上の理由で東京タワーと同じ赤と白のペンキで塗られるごとになりました。潮風にも錆びないように船舶用のペンキが使われました。
老朽化が進んでいることから、リニューアル工事をすることになり、今年の9月26日から、タワーが60周年を迎える2023(令5)年まで営業を終了することになりました。
リニューアル工事を前に、タワー誕生から現在までの歴史を振り返る「ポートタワー写真展」が31日から開かれ、貴重な写真25点が展示されます。
地上3階の展示スペースは入場無料です。
神戸港の発展を見守ってきた「神戸ポートタワー」と自分の歴史も重ね合わせてみてください。

五色塚古墳

神戸市内の人なら、小学校の時の見学などで一度は訪れたことがあると思われる「五色塚古墳」は、4世紀後半に築かれた、兵庫県下最大の前方後円墳です。
明石海峡を往来する船を眼下に見下ろすことのできる絶好の高台に位置していますが、当時は、周辺にこのような巨大な古墳を支えたと思われる集落などはなくて、ここに突如として築かれた「五色塚古墳」には、いまだに多くの謎が残されたままです。
墳丘は、全長194メートル、3段で築かれている巨大な古墳で、円筒埴輪約2200本がずらりと並べられていた、と推定されています。また墳丘の斜面には、全面に約223万個の丸い石が葺かれていたようで、この石は、対岸の淡路島から運ばれてきたとみられています。
また、「五色塚古墳」は「偽墓」ともいわれてきましたが、墓自体は本物の可能性も高く、この地の有力者が自発的に造ったのではなく、ヤマト政権とのつながりが強い人物で、周辺を支配した有力者の墓ではないか、と考えられています。
1921(大正10)年に、西側にある小壺古墳とともに国の史跡に指定されてから、100年をむかえ、「国史跡 五色塚古墳あゆみ」の企画展が、神戸市埋蔵文化財センターで開かれています。
まずは、墳丘に立ちその雄大な景色を眺め、豪族気分になってから、様々な疑問を持ったまま、謎解きゲームの感覚で企画展に足を運んでみてください。

「五色塚古墳」4月~11月無休、山陽電鉄霞ヶ丘から10分
☎078-707-3131
「神戸市埋蔵文化財センター」月曜日休館、市営地下鉄西神中央駅から8分、
☎078-992-0656
いずれも無料
2021-6-25

観光茶園「静香園」に行ってみよう!

 

急に思い立ち、緑色の空気を吸いたくなり、三宮から市バス2系統に乗り約15分。バス停で降りて犬のお散歩をしている人に「静香園」の方角を尋ねてみると、坂道一時間はかかって大変よ、と言われ、まずは怖じ気づきました。

 

住宅街の坂道の途中にある馬頭観音で有名な「妙高院」を横目に、摩耶山への登山道”青谷道”に入り、かなりの急な坂を、とにかくジグザグに歩きます。
川のせせらぎとウグイスの美声を心地よく聞きながら、約20分で、目指す「静香園」に着きました。
ここは神戸市内唯一の茶畑です。
明治の頃には、灘区原田通から中央区割塚通一帯が茶畑で、神戸の茶は横浜の生糸と並ぶ重要な輸出品で、神戸港か輸出額の半分を占めたこともありました。1976(昭和51)年に、ここ青谷に茶畑が開かれて、およそ100年ぶりに神戸に茶畑が復活したことになりました。
広い敷地に、まろやかな味が特徴のヤブキタ(品種)が約五千本が栽培されています。
入園はかりがね茶(茎茶)とお菓子付きで600円です。
初夏の風物詩となっている絣の着物に豆絞りを身にまとって新芽を摘み取る、茶摘み体験は、今年はまだ決まっていないとのことです。
しばしマスクを外して、深呼吸をし、深呼吸をして身体の隅々にまでみどり色の空気を吸い込んでみてください。
神戸の街に住み、憩う贅沢さを実感できる「静香園」あたりです。健脚の人は、青谷道をどんどん歩いて、摩耶山山頂までトライしてくださいね。
■「静香園」土日祝日のみ営業
予約は078-222-0007

2012-4-23

須磨浦ロープウェイがリニューアルしました!

2020年11月4日から須磨浦ロープウェイのリニューアル工事のため、須磨浦山上遊園も休園していましたが、いよいよ2021年3月25に全面営業再開します。
須磨浦ロープウェイは1957(昭和32)年9月に開業しました。
ゴンドラ2台(定員30人)で、高低差約180mを3分15秒で結び、2019年度は約14万人が利用していました。
毎年12月に安全のためゴンドラやワイヤなどの定期点検を更新していましたが、制御装置は開業時のままの手動を使っていました。しかし、今後も同じようなメンテナンスを続けることが難しくなってきたので、自動化が決まりました。
開業から63年間使い続けられた制御装置は新しく自動式になり、麓の山陽電鉄須磨浦公園駅と須磨浦山上遊園は、15秒短縮されて約3分で結ぶことになります。
2007(平成5)年に新造された3代目のゴンドラ「うみひこ」(白)、「やまひこ」(赤)はそのままで、海と山と空の景色を眺めながら、山上の昭和レトロな世界まで運んでくれます。
 ”乗り心地の悪さ”で有名な「カーレーター」や、「回転展望台」はそのままですが、山麓側の売店や乗車券売り場は改装されて、神戸ならではのスイーツやゴンドラなどをかたどったキーホルダーやボールペンも新たにデザインされて販売されます。
これから桜だけでなく新緑も楽しむこともできます。また来年の元旦には、初日の出も楽に楽しめそうですね。
手動式の時とは違った乗り心地も体験してください。
3月~10月:10時~18時。毎週火曜日休園
◯078(612)2067

2021-3

花森安治「暮らしの手帖」の絵と神戸 おかえりなさい花森さん

今、神戸ゆかりの美術館(六甲アイランド)で「花森安治『暮らしの手帖』の絵と神戸」が開かれています。
初代編集長で、イラストレーターとして装丁もしていた花森安治さん(1911~1978)は、神戸(現在の須磨区生まれ)の出身ですが、案外知らない人の方が多いかもしれません。
特に、今回は、その驚くべき多才な仕事ぶりと共に、故郷・神戸への思いを取り上げているコーナーもあり、その原稿に思わず読みいってしまいました。
「暮らしの手帖」(当初は「美しい暮らしの手帖」)は1948(昭和24)年に、豊かで賢い暮らしを提案する”生活総合誌”として創刊されました。その時代には、まだ当たり前ではなかった冷蔵庫、洗濯機などの家電や日用品などの「商品テスト」が目玉の企画もあり、企業広告を一切載せずに斟酌(しんしゃく)や忖託(そんたく)などなしに、客観的で中立な批評がされていました。
花森が30年間担当して描いた表紙絵の、現存する原画153点の中から、今回は36点が出展されています。パステル、水彩やクレヨンなどの画材で描写された作品は、多様でこのまま絵本の表紙になるような愉しさです。因みに、クレヨンとクレパスの商品テストの記事も展示されていて、自分が幼い時につかっていたのはどれかなと、興味深く見ました。
国内各地を取材した連載「日本紀行」第一回(1963年)は、神戸が取り上げられています。
「明るくて、ハイカラで、すこしばかりおっちょこちょいで、底抜け楽天的で、それでいて必死に生きている」町、と神戸のことを書いています。
「暮らしを軽蔑する人間は、そのことだけで、軽蔑に値する」という花森の言葉どおり、「暮らしの手帖」は、名もない人たちのありのままの暮らしを記録し続けた雑誌でした。
しかし、それは、花森安治という伝説の編集者の高い美意識に裏付けされたものであった、ということを再認識させてくれる展覧会になっています。
3月14日まで月曜日休館◯078(858)15

2020/02/26号

神戸港を支えた人のこと ~網屋吉兵衛~

 

神戸の開港にあたって、それほど表舞台には出てこなくとも大切な人がいます。
網屋吉兵衛もそのひとりです。19世紀半ば頃には、兵庫津(ひようごのつ)の辺りには、船底に付いた貝殻や船虫などを焼いて船を整備する「船たで場」(現在の乾ドッグのような所)がなくて、四国の多度津まで船を曳いていかなければなりませんでした。
それを聞き及び、1854年に、二つ茶屋村の呉服商、網屋吉兵衛が船たで場を造ることを代官に願い出て許可を得ました。
船たで場は、工事を始めてから3年余りの月日と、巨額の資金が費やされてようやく完成しました。しかし、家族からの反対にあったり、また資金の工面のために苦しむことにもなりました。1864年、徳川家茂に謁見をした際には、神戸港の開港を
進言していますので、築港の先駆者と言えるかもしれません。
「網屋吉兵衛顕彰碑」は、1979(54)年に第一突堤に設置されましたが、ウォーターフロントの開発工事の為、当時の船たで場に近い所に移設されました。
莫大な私財をなげうち、神戸港開港に陰ながら尽力した人のことを、忘れてはならないと思います。
2020-12