隠れた紅葉の名所〜徳光院

 

桜の頃ほどではありませんが、秋が深くなってくると、どこか紅葉狩りに行きたいなぁと気持ちが少し騒ぎます。
テレビや新聞などでどんなに美しい紅葉や黄葉を見ても、奈良や京都まではと、なんとなく億劫になってしまいます。
そこで今回は、中央区にあるのにそれほど知られていなくて、思いたったら歩いて行ける、紅葉の美しい所をご紹介したいと思います。
新神戸駅の下を通り抜けて、すぐ背後にあるレトロな砂橋(いさごばし)を渡り、布引の滝に向かって坂道を登って行きます。その途中に「徳光院」はあります。
この付近は砂山(別名丸山)といわれ、生田神社が最初に祀られていた場所でした。が、古い時代に大雨で流され、今の位置に移ったと伝えられています。
徳光院は、1905(明治38)年に川崎造船所の創業者、川崎正蔵が建立した臨済宗の寺院で、境内にある多宝塔は国の重要文化財に指定されています。
新緑の頃の青紅葉も、なんともいえない風情がありますが、やはり紅葉の頃は見上げるような大木が、朱色や黄色にお化粧しているかのような様は、豪華で見事です。
そのまま見とれながら滝の方に足を伸ばし、4つの滝の音を聴きながら下山するのも楽しいでしょうか。
こんなに近くで、”錦繍(きんしゅう)”を味わうことができるのも、神戸ならではの贅沢かもしれません。

神戸市中央区葺合町布引山2-3
電話078-221-5400

2021-11

虹の石 ~後藤比奈夫さんのこと~

 

2020年6月5日に、俳人 後藤比奈夫さんが亡くなられました。1917(大正6)年生まれですから、103歳でした。
私が高校生の時に、現代国語の教科書で習ったことのある人でした。その俳句の世界では有名な重鎮の後藤比奈夫さんとの、間接的な出会いの始まりは、今から25年あまり前のことです。
風の強い寒い日に、老夫婦が案内所に来られ、「後藤先生の虹の石の句碑は、何処にありますか?」と尋ねられました。
その時、恥ずかしいことに、私はその存在を知らなくて、調べるのにしばらく待って頂きました。
そして、ようやく東遊園地の南東あたりにあることがわかりました。
しかし、他所から来られ、この辺りに詳しくない人が行くのはたいへんだろうと、ご一緒することにしました。

「虹の足とは ふ確に美しき 比奈夫」
と刻まれた句碑は、大きな手水(ちょうず)鉢のような彫刻作品でした。

 

句碑~虹の石~(彫刻作品)。
文学とアートのコラボレーション
造形作家 河口龍夫氏作
(神戸出身)

この句碑は、ご自身の目で確かめて、感じて頂くのが一番。東遊園地の東、フラワーロードにあります。

神戸出身の有名な造形作家、河口龍夫氏による作品で、くり貫かれた黒御影石の、底に俳句が彫られていています。
後藤比奈夫さんの俳句は、水面越しにゆらゆらと見えています。
でも、時には、空や、落ち葉や近くの大きなくすの木などが映っていますから、意識しないで歩いていると、うっかり通り過ぎてしまうこともあります。
お二人は、その美しい句碑との出会いを、とても喜んで帰られました。
後藤比奈夫さんの主宰されていた俳句の会に、徳島から参加されて、
帰路、一目「虹の石」を見ておきたかった、ということが、後に頂いた葉書でわかりました。
その後、ご縁があって、後藤比奈夫さんのお孫さんにあたる
和田華凜さんと出会い、少し俳句を習う機会もありました。
句碑で、これほど素敵な句碑は他にはないように思われて、私は今でも、あの日に偶然訪ねて来られた老夫婦に感謝の気持ちでいっぱいです。

クリスマスローズ そんなに 俯くな

六甲山にも それなりの 登山地図

集団で してゐる主張 吾亦紅(われもこう)

アネモネの 好きな彼女を 思い出す

など、4年前の後藤比奈夫句集「白寿」から、ワクワクとドキドキの作品を選んでみました。

山手街園(バラ園)

気がつけば花の盛りを今年は一度も目にしないまま、季節は過ぎようとしています一という文章に、目が留まりました。桜のお花見のことに触れてのエッセイの一部でした。
お花見どころか、マスクをして、すれ違う人たちともなるべく一定の距離を置いて、という自粛の新しい生活スタイルが、次第に身についてきました。が、逆に、名前もわからないような小さな花や、道端でふと見つけた雑草でさえいとおしく感じますね。
今回は、目にいっぱいのバラの花に癒されるスポットをご紹介したいと思います。

昔から多くの人が行き交う主要幹線の中山手通りに、ひときわ目を引く花園があります。
この「山手街園」(以降通称のバラ園に)が造られたのは、昭和39年頃のこと。
ちょうど戦後の復興期で、街にひとときのやすらぎを、と自宅でバラの育成を手がけていた筑紫六郎さんの寄付金をもとに、神戸市が窓口となって「神戸市街頭バラ園創成基金協会」を作り、街頭にバラを植樹することになり、生まれたのが山手バラ園です。
当時から街路樹といえば、アオギリやヒラドツツジ、アベリヤなどと決まっていて、このようにバラは珍しかったそうですが、今でも、緑地帯にバラを植えている例はほとんどありません。
協会は昭和55年に解散しましたが、その後の管理は神戸市に引き継がれました。現在の山手バラ園は平成4年に改修され、約500㎡の園内には、15種550株のバラが5月から11月まで咲き継ぎます。
とりわけ、今5月は見事なバラを愛でることができます。
誰でも通りすがりに、また車の中からでも見ることができます。
こんなときだからこそ、みんなでわざわざではないお花見を
楽しんでください。
山手街園(バラ園) 中央区中山手通4丁目

「神戸史話」から ~”黒い死”ペスト~

世界中でコロナと闘っているような毎日。
「神戸市総合インフォメーションセンター」もついに臨時休館になり、粛々と資料整理はしながら半分は在宅勤務の指令です。
テレビ体操で身体を整え、暫く目の行き届かなかった庭の片隅で、ひっそりと咲いていたシランやクジャク草やラベンダーに感動しています。そして、普段読めなかった本と向き合っています。
4月1日に亡くなられた、文芸評論家であり、郷土の作家の発掘にも尽力された宮崎修二朗さんから頂いた「神戸史話」の中から、今の状況と合わせて興味深く引き込まれた「”黒い死”ペスト」の章を抜き書きしたいと思います。

一ネズミを見たらペストと思え一。
明治三十二年十一月、神戸市民はネズミを目のかたきにし  て追いかけた。ネズミはおそるべきペスト禍をまき散らす凶悪犯だった。
その年十一月八日夜、市内葺合区浜辺通五丁目、網干屋藤井重三郎所有の米倉で働いていた店員、山本幸一(十三歳)が、突然高熱を発し二日後、衰弱して死んだ。つづいて同区内の五人が急死。いずれも症状は同じだ。しかし、それがペストと呼ばれる恐ろしい伝染病によるものとは、だれも気がつかなかった。
山本少年の死体解剖で、真性ペストとわかってから、神戸市民は”黒い恐怖”にちぢみ上がった。県知事は十一月十七日、県報号外で予防を告示。神戸港和田岬の海港検疫所で出入船舶の検疫を強化、乗降客の臨時検疫を行なった。汽車の乗客にたいしても三ノ宮、神戸、兵庫の各停車場に防疫班を出張させて検疫。
……
犠牲者とひろがった。葺合区を中心に、……元町、栄町など十一月中の患者二十二人。うち九人が死に、新聞は連日「黒死病」を報じた。
皮肉なものである。日本最大の貿易港にのし上がり、流行の窓口だった神戸が日本で初めてペストの侵入を許した。コレラは明治十年以来、幾たびかの大流行を体験ずみである。だから、前年コロンボ、シンガポールなどにペストの流行を伝えられたときから。水ぎわ作戦に徹底を期した。同年五月、米船ペルー号が神戸へ入港、船内でペストが発見されると、完璧な足どめ作戦で”撃退”に成功してひと息ついた矢先だった。
……
神戸全市に非常事態宣言が発せられ?「ネズミ一匹五銭で買い上げます」のようなビラ五万枚が配られた。同時に、菌が足につくというので”はだし禁止令”が出され、古タビを集めて半強制的にはかせられた。
……
そうしているうちにも、ペストは大阪阿部野橋へひろがり、十二月には岐阜、沼津と東斬。

カミュの「ペスト」よりも、はるかに真実味のある正確な歴史の記録です。
「神戸史話」編集 落合重信 有井基
昭和四十二年発行

ペスト騒動のその後、昭和四十二年には内務省から”飼いネコ奨励”の通達が書く府県に出されています。
これは、120年ほど前、日本で最初にペストが上陸した神戸での様子です。慌てた当局の対策がネズミ退治で”ネズミ成金”も出た、というまさしく悲喜劇が、つぶさに記されていました。
カミュの「ペスト」(1947年発表、ペストが蔓延して閉鎖された都市の人間模様が描かれている)とあわせて読んでみると一層興味深いです。

花時計 ~街中の名脇役~

神戸市内には、街の移り変わりを、密やかに見つめているものがいくつかあります。
その中のひとつが「花時計」で、1957(昭和32)年から、60年以上にわたり神戸の街を彩ってきました。待ち合わせや観光の名所として、また、居留地への道案内には欠かせない目印として大切な役割を担ってきました。
花時計誕生のきっかけは、宮崎辰雄元市長(当時は助役)欧米出張でした。その時に4つの花時計に出会いましたが、そのうち、ぜひ神戸の街にも同じようなものを造りたい、とモデルにしたのはスイス・ジュネーブのイギリス公園にあった花時計でした。 何しろ前列がなく、まずは海外からの情報収集から始まり、調査や研究が重ねられました。 文字盤が直径6mという大型時計も、当時圏内にはありませんでした。その上、傾斜角度15度の傾いた文字盤の上が 花壇になるということで、機械室の防水や防湿といったことも 含め様々な問題が山積でした。使う花についても、条件はたくさんあり、植え替えをする度 に必要な数千株の花がそれほど高価ではなく入手しやすいこと、時計の針の動きを邪魔しないような低い丈で、丈夫で長持ちすることなどです。
フラワーロードに面した神戸市役所の新庁舎(現在・2018年10月・の2号館)の 完成と同時に始動式が行われました。高松宮妃殿下が始動のボタンを押されると、チャイムが鳴り響き3000人の市民からの拍手と150羽の鳩、1000個の風船が舞い上がったそうです。
その「花時計」は、市役所の建て替えに伴い、仮説されるのでここにあるのは11月下旬まで。
神戸の60年を刻み続けた「花時計」。いつもここにあった、ということを脳裏に刻みつけておこう、と思います。

2018年10月

イニエスタ選手、ようこそ神戸へ

幻の徳川道2

前回は、幕末に開港した神戸に在住する外国人と、日本人との衝突を避けるために作られた「徳川道」のことを書かせてもらいました。
現在の金額で約32億円の莫大な出費と、わずか2ヶ月という幕府の威信をかけた突貫工事で普請された「徳川道」は、大名行列が参勤交代で通ることは一度もなく、”幻の道”になってしまいました。
さて、神戸ヒヨコ登山会の例会として「幻の徳川道(全行程)を歩く」という企画がありました。
一回目は4月8日に東の起点、阪神石屋川駅~杣谷峠~穂高湖~森林植物園までの約10キロを歩きました。この日は途中で季節外れの雪が舞い、山桜との見事な景色を眺めることができました。六甲山上の道は平坦で、コバノミツバツツジがひそやかに咲いているのを右に左に眺めながら歩くことができました。
二回目は、森林植物園からでしたが、途中で降りだした土砂降りの雨で西鈴蘭台で中止になり、6月9日にその続きを歩きました。星和台~藍那~しあわせの村~大歳神社~奥畑団地造成地区~総合運動公園前までの全部で約13キロ。住宅地や山中など起伏に富んだ道でした。
三回目は、総合運動公園前~奥畑~高塚山~長坂~神戸学院大学前~朝霧~大蔵海岸までの約10キロ。
全行程約8里(約32キロ)を歩きとおしてみると、既存の道も使いながら、行列の人馬の負担を軽減できるように、なるべく歩きやすく起伏は作らないような配慮もなされていました。
驚きは、この難所も含めたたいへんな工事を請け負った石井村の庄屋、谷勘兵衛さんと25ヵ村の人たちの結束力です。
「幻の道 徳川道」は、昭和50年から三年係りで本格的な調査がなされて、それから全コースを整備されました。
神戸の宝でもある歴史的な道「徳川道」、地図上だけでも一度俯瞰してみてください。

幻の徳川道1


徳川道は、石屋川~摩耶山裏~藍那~白川~大蔵谷までの約32キロ(約8里)の道のことで、「西国往還付替道」が正式名称です。
幕末、開港した神戸に在住する外国人と日本人との衝突を避けるために、外国人と接触しないように作った迂回路でした。
総予算額3万6千両(現在の貨幣に換算すると36億2000万円)の大工事で、工事を請け負ったのは兵庫石井村の庄屋・谷勘兵衛さんで、沿道各村合わせて25ヵ村が協力してこの大工事にあたりました。
工事期間は約2ヶ月で、この大きなプロジェクトは予定どおりに兵庫開港日の12月7日くらいには竣工していますから、驚きの突貫工事でした。
外国人との接触トラブルが、日本の植民地化への導火線となることを恐れて急きょ着手した道でしたが、工事が完成した直後に徳川幕府は崩壊し、明治政府が成立しました。
本来の目的の、大名行列がこの徳川道を通ることは一度もありませんでした。
しかし、皮肉なことに、1868年1月、新政府の命令で西宮の警備に向かっていた備前(岡山)藩の部隊は、この道を通らないで 従来の西国街道をを行軍し、居留地に近い三宮神社の前で外国人と接触し、神戸が一時外国人に占拠される、という事件になりました。(神戸事件)滝善三郎が切腹することで落着しましたが、開港にあたり最も恐れていたことが、結局は莫大な出費で普請された徳川道が使われないままに起きてしまった、ということが「幻の道 徳川道」といわれている所以です。
六甲山上の穂高湖からは、歩きやすい気持ちのよい道ですから、150年前に思いを遡り歩いてみてください。

神戸の名物  「シティー・ループ」バス

 

神戸には、観光の名物がたくさんありますが、中でも「シティー・ループ」バスはその代表的なものでしょうか。
その経緯を辿ってみると、1983(昭和58)年にはすでに提案がなされ、バスそのものが観光の名物になり、かつ市民の利便性にも繋がるように、ということが目的に掲げられていました。
“坂の街サンフランシスコ”に視察に行き、同じく坂の多い神戸にも相応しいのではないかと思った、という話はバスの計画に携わった、当時の経済界の関係者から聞いたことがあります。
その後、1987(昭和62)には、神戸開港120年祭の期間中に都心の周遊バスとして限定で試走しています。
ネーミングの公募で名前を「シティー・ループ」に決定して、いよいよ運行が始まったのは1990(平成2)年です。
着想から振り返ると、「シティー・ループ」には、実には34年の歴史がありました。
他の都市に先駆けての運行でしたから、後に、旅先の京都や尾道などで同様のバスを見かけた時には、何やら誇らしい思いすら感じました。
シックな緑を基調にした車体のデザインは、走る異人館と言われています。
車内のガイドさんの制服は、帽子も靴もセンスの良い神戸ファッションで揃えられています。
今や、神戸に来たらまず「シティー・ループ」に乗りたい、という世界中からの観光客で、連休や夏休みなどは、長蛇の列です。
北野町に住まれている人も、お買い物の帰りの足として利用されていて、まさしく、当初の理念どおり日々の暮らしの中で市民にも活用されています。
この夏には、開港150年で公園として整備されたメリケンパークに、期間限定で走る計画も予定されています。
遠方からひさびさの友人が来る、神戸での同窓会の幹事を引き受けた、というような時、「とりあえずループバスに乗ってみよう?」、というのも神戸っこに定着してきました。
「シティー・ループ」は、神戸にとってなくてはならない存在になりました。

2017-6-23

神戸の水

神戸には、自慢したい場所や物があちらこちらにたくさんあります。

さて、今年の2月に2回に分けて放映されたNHKの人気番組の反響は予想以上でした。時間をかけて丁寧に作り込まれた番組で、長年神戸で暮らしている人にとっても驚くこごが多く、裏方のスタッフの方々の調査力に脱帽でした。 さて、番組で紹介されていた中でも、とりわけ関心が高かったのは、「赤道を超えても腐らない水」関連のことでした。

明治の始めの頃、神戸はまだ井戸水に頼っていましたが、明治時代中頃に開港したことにより、もたらされたコレラなどの疫病が流行したこともあり、早急に安全な水道の設備が必要になりました。
そこで、1900(明治33)年に創設されたのが、「奥平野浄水場」「布引貯水池」です。国内では7番目の水道です。
長い間、神戸の水道は、この後に出来た「鳥原貯水池」とで支えられてきました。
六甲山系の花崗岩をくぐり濾過された水は、不純物がなく適度なミネラルを含む「軟水」です。
他の水に比べて保存もきくので、船に積み込まれた”神戸ウォーター”は、赤道をこえても腐らない水と、たちまち船員さんたちの間で評判になりました。
現在、市内のほとんどの水道水は琵琶湖を水源にしている淀川の水を浄化した水で賄われています。
4月から、布引の水を100%使った「神戸渓流」を再販売しています。
販売場所は、神戸市総合インフォメーションセンターと水の科学博物館です。
207-4-22

 ー空から比較ー

神戸港開港150年目を記念して作成された絵図が、現在、神戸市役所1号館24階展望ロビーに展示されています。
開港当時と現在の神戸の絵図を描いたのは、鳥瞰図絵師の青山大介さんです。
昨年の春から約9ヶ月をかけて作成された鳥瞰図です。
「昔」には、生田川が流れ、生田神社には参拝している人たちがいて、まだまだ建設途上の居留地の様子がよくわかります。
また、港内には、イギリス、アメリカ、フランスなど18隻の外国艦船が停泊していて、それぞれの国旗やスクリュー船か外輪船かの区別からマストの数まで、資料に基づき丹念に描き分けてあります。
「今」の絵図には、完成が予定されているビルや施設、入港する予定の客船なども盛り込まれています。
そして、中には、西国街道に潜んでいた追いはぎなど、作者だけの遊び心がたっぷりの隠し絵もちりばめられています。
青山さん自身が大震災を経験したのは18歳の時でした。
あえなく壊れ、なくなった街に対する思いは人一倍です。自分の絵図で、故郷神戸の復興を描き残しておきたい、そのことで街に恩返しをしたい、と気の遠くなるような精緻な鳥瞰図を描いています。
青山さんの作品を前に、150年の歳月の歩みに思いを馳せてみてください。

Dジャーナル2017-6-23号では青山大介さんの鳥瞰図を使い次のような紙面を制作しました。