神戸の歴史がひとつ、幕を閉じる 燈篭茶屋

JR元町駅から、ゆっくり歩いてもそれほど時間がかからなくて、本格的な山登りの格好をしなくても、街歩きの延長で気軽に歩けるコースの一つが、大師道沿いにある燈籠茶屋です。

西の月見茶屋と同じく大正12年から開業されていますので、100年もの間、神戸の人に親しまれてきましたが、2024年2月18日(日曜日)が最後の営業日で、歴史の幕を閉じられることになりました。

この日は、数年ぶりという暖かな日。5月くらいの陽気で、早朝より、7時からの開店を待ちきれない人がすでに並ばれていて,その内、今日が最後と口伝えで知った方々で13時まで常に100人以上の行列になりました。

赤ちゃんを背負って、小さな子どもを連れて、大型犬をお散歩したついでに、フクロウを肩に乗せての家族連れなどの中に、インドの方々もたくさん並ばれていました。真珠などを商う貿易商の方々が、この茶屋をコミュニティの場にされていました。お目当てはおでんで、宗教上のことで食べられない食材があるので、女将さんが特別に、カツオなどのダシの代わりに、野菜の粉と昆布で特別なお鍋を出されていたとのことでした。

私も、NHK BSの「新日本風土記」(4月放映予定)という番組の立ち会いで数時間この方たちとお話ししていて、いかに神戸の人たちに親しまれていたのか、実感しました。気合いを入れた山登りのかただけではなく、むしろこの辺りに住まわれている人たちのオアシス的な存在で、3代にわたり茶屋に来て、炭火七輪で焼いたトーストやインド風ミルクティーや、おにぎりや卵焼き、お味噌汁で休日の豊かな楽しい時間を過ごされていました。

-これぞ、神戸流の楽しみ、の灯が、またひとつ消えていきました。

2024-2

トンカ書店 私の好きな森本さんの本屋さん

あまりにも突然の、悲しいお知らせでした。
私の「みちくさKOBE」(2022年2月発行)を、唯一販売してくださっている「花森書林」の森本恵さんが、5月28日に亡くなっていた、と弟さんの頓花慎太郎さんから聞いたのは6月の初めでした。43歳でした。
古書店の組合を代表して参加されていた森本さんと初めてお会いしたのは、数年前の「活字文化について考える会」で、元海文堂書店の島田誠さんたちとの対談でした。
2005年(平成17)年に開業した森本さんのお店「トンカ書店」は、分かりに
くいトアウエストの一角にひっそりとありましたが、その存在感ゆえに多くの〝
トンカファン〞が通っていた街の古本屋さんでした。
ビルの老朽化で致し方なく2018年12月に一旦閉められ、「花森書林」として再スタートされたのは、2019(平成31)年2月のことでした。元町商店街の北側の、かくれんぼするには良さそうな路地裏の「花森書林」は、前よりもさらに謙虚な佇まいで、ここに在ります。絵本、文学全集、漫画などに加え、愛らしい雑貨、メモ、シール、ブローチなどが所狭しと置かれてあります。
森本恵さんが他界されてからまだ2か月足らずですが、只今8 月21日(月)ま
で「トンカ書店× 花森書林-はじまりは2005年-」という企画展がお店の一画で開かれています。数年前からの闘病生活の中で、恵さんは弟慎太郎さんには、亡き後、私のことを思ってお店を続けなければ、とは思わないでほしい、慎ちゃんの人生なのだから、と言い遺されていたそうです。わずか4年間の姉弟の「花森書林」ではあったけれども、この居心地の良い空間で出会い、また、
支えられた多くの方々へのご恩返しがしたい、と今新たな決意で、前と変わるこ
とのない「花森書林」に立たれています。
古書店は店主が作るのではなく、お客さまが持ち込まれた物で作られている、と
いう恵さんの言われていた通りの〝ざっくばらんな本屋さん〞に、慎太郎さんの
流儀がどのように展開されるのか、楽しみにしているのは、わたしたちだけでな
く、古書店主として、姉として彼方より見守っている恵さんかもしれません。
■神戸市中央区元町通3 -16-4
※火曜日・水曜日定休
営業時間13: 00〜19:00
☎(078)333-4720

2023-7

ホタルと布引茶屋

こんな頃になると、もう、ホタルは現れたかなあ、と気になる。
布引の滝から、さらに奥へ、樹々の良い香りと木漏れ日を浴びながら心地の良い山道を進むと、紅葉の茶屋がある。ハイカーにとっては、喉を潤したい時も、不意に困り事が起きた時にもオアシス的な存在でもある。さらに、ここの悦子女将さんの、笑顔と絶妙なお話しの合間に魔法のように作ってくれるすき焼きが
名物で、遠来の大事なお客様をどうもてなしたら良いか、など頭を悩ます
時、〝最後の一手〞になる。
さて、その悦子女将さんから、「ここ数日カジカの鳴き声がきこえています。ふと、もしや…と思い庭に出てみますと、いました!今年初めての対面、ホタルが舞っていました。」とホタル便りがきました。悦子さんがひとりで、川の木々の合間に、ふうわり、ふうわりと心もとなげに飛んでいるホタルを、愛でられている様子が目に浮かび、この贅沢な桃源郷での暮らしの、美しい景色を垣間見た思いがした。
大学でほたるの育成に取り組んでいたり、大きなホテルでイベントとして放し飼いにしたりしたことが話題になっても、少しも心が動かない。
私が小さい頃の夏の夜は、青緑色の少しカビくさい蚊帳の中で、親子でお布団を並べて寝ていた。どこからか迷い込んできたホタル、気になりながらいつのまにか寝てしまっている。母の柔らかくてひんやり冷たい二の腕を触りながら……。
雨が降りそうな前日の夜更けに真っ暗なテラスで、密やかなホタルの明滅をひとりで眺めている悦子さんの姿は、私の初夏の夜の思い出まで呼び起こしてくれた。
2023-6

「イペ」の花が 咲きだしましたよ

鯉川筋沿いに、イペの花が咲きました。大丸北側スクランブル交差点、
モクレンとコブシの花が終わり、しばらくは花のない時期なのに、いつも
より早く開花したイペの鮮やかな黄色の花にカメラを向けている人がたく
さんいます。
イペはブラジルの国花で、2008年にブラジル移住100周年を記念して、鯉川筋に沿った7ヶ所に植樹されました。
1908(明治41)年「笠戸丸」の出港から1971(昭和46)年の「ぶら
じる丸」の最後の出港まで63年間、ブラジル移民船が神戸港から出ていました。鯉川筋の突き当たりにあった「神戸移住センター(現在は「海外移住と文化の交流センター」)から、鯉川筋を通り船に乗り込み新天地ブラジルに移住した人は
約25万人と言われています。その中でどれほどの人が再び故郷の地に戻っ
てこられたのか…。それを思うと、毎年この鮮やかな黄色のイペの木を眺
める度に心の奥が揺れ動きます。移民関連の施設として日本で唯一残って
いるのが「海外移住と文化の交流センター」です。
移民する人たちが希望と不安を抱いて最後に過ごした場所、ここから移
民坂を下り港まで、イペの木に誘われながら港まで歩いてみてください。

真珠会館がひと休み

旧居留地の南東の端に、「日本真珠会館」はあります。街歩きのガイ
ドの時に前までご案内しても、これが有名な真珠会館だと気がつく人はほ
とんどいません。外から見るだけでは、その良さが分かりにくいのかもし
れません。残念なことに、今年2023年の3月末で閉鎖されることになり
ました。真珠会館は、1952(昭和27)年に兵庫県などか中心になり、
検査や取引の拠点として建てられました。県営繕課の建築家、光安泰義氏
の設計でモダニズム建築として評価され、国の登録有形文化財にも認定さ
れています。
過日、内部の隅々まで最後の見納めをしてきました。昭和天皇が来られ
た時に乗られたという手動のエレベーターは、すでにありませんが、壁面
のスイッチもモダンな椅子も、天井の和洋折衷のデザインも71年間大事に
使われてきました。
私が一番感動したのは、自然採光で真珠の選定をするために、建物は、
六甲山の緑を通した光を取り込むための向きに建てられ、窓ガラスも光をその
まま取り込むために当時としても高価な素材にこだわっています。
黄金比率で計算されていて上りやすい階段、モダンなデザインの照明器
具、トイレのすりガラスの可愛さ、時代の先取りさながらの中庭、玄関
ポーチの緩やかなカープ、窓の面格子のほんのわずかのカーブなど、光安さんの小さな可愛らしい遊び心のデザインに、いつも胸がキュンとなります。
71年前に生まれた、単に神戸ではなく「日本真珠会館」。ただただ、じっと居留地の隅で佇んでいたのではなく、「真珠の街神戸」の顔として大事な建物でした。
今後の具体的な計画は決まっていないそうです。私は、この建物が積み
重ねてきた輝かしい記憶を心に刻みながら、なお語り継いでいきたいと
思っています。

2023-3

三宮神社 〜梅をもとめて〜

どこかに隠れていそうな小さな春の気配を、探してみたくなりました。
この季節ならば梅を見たい、と思ってお買い物や用事のついでに、ふらりと寄
ることができる「三宮神社」を訪れてみました。
紅梅がこれからどんどん咲いていこう、というよい感じで咲いていました。白
梅も出番を待っているところ、ロウバイもあって、車がどんどん行き交うこのよ
うな繁華街のまん中に、コンパクトに〝小さな春〞がありました。
三宮神社は、生田神社の裔神八社のうちの3柱目にあたる由緒ある神社なので、
昨今のブームで御朱印を授かりにくる若い人たちも増えています。
また、この地は、「神戸事件」の起きたところです。

1868(慶応4年)1月11日、現在の暦だと2月4日にあたる日、備前藩の隊
列約500人が、明治政府の命令により防備のため西宮へ向かう途上でした。午
後2時くらいに三宮神社辺りにさしかかった時、外国軍艦の水兵(フランス人かイギリス人)が隊列を横切ったことに端を発した事件です。
ちょうど神戸の開港の最中、居留地は造成中で、数ヵ国の外国人がいました。切
りつけられた外国人たちが黙っているわけはなく、あわや戦争という事態までい
きかけましたが、滝善三郎の切腹によりなんとか収まりました。
これより数年前にも、同様の「生麦事件」が横浜で起きましたが、こちらは薩
摩藩と戦争状態にまでなっています。
それに比べ、「神戸事件」は、備前藩第三砲兵隊長の滝善三郎ひとりに責任を押
し付けた形で終息に至りました。政治体制がまだ確立していなかった中、明治政
府として初めて関わった外交問題が「神戸事件」でした。
事件が起きたときは、旧暦では、まだ寒い頃でしたから、梅は固い蕾だったと
思われます。
「三宮」という地名の元にもなった「三宮神社」の歴史、不本意ながらだった
のか、あるいは、武士としての本懐だったのか、滝善三郎の気持ちを推し量りな
がら、しばし神社に足をとめてみてください。
2023-2

 神戸家具のこと

元町商店街で、ちょっとひと休みしたい時に、いつもその空間が浮かぶ喫茶店が、一番街の「あじさい喫茶」です。階段を上ると、そこはひと昔前の、なんとも言えない手触りの良い空間が広がっています。「神戸家具」で店内の椅子やテーブルが設えられているから、でしょうか。
そこで、今回は、「神戸家具」のことを調べてみました。
開港と共に、居留地などで外国人が住んだり仕事をするようになると、その暮らしに合わせて家具や装飾品などが持ち込まれてきました。祖父母の代から受け継いだ家具を長く愛用するのが当たり前のこと。やがて、それらの補修などを頼まれ、彼らの使っている西洋家具を参考にしながら、見よう見まねで応じたのが、神戸の船大工さんや家具職人さんでした。
西洋家具の発祥は、神戸と横浜と言われてますが、開港されていた他市と比べ、今日まで「神戸家具」として確立されているのも、神戸ならではです。

 いずれも単に西洋の模倣にとどまらず、落ち着いたヨーロッパ的なデザインをベースにしながらも、そこには日本の職人さんの丁寧な技が随所に駆使されています。それは、風見鶏の館とか外国人墓地の石碑などにも、その職人さんたちの技が活かされているのと同様です。
明治5年創業の「永田良介商店」は今日までその流れを汲んで神戸家具の王さまとして営業されています。
元町商店街の「田村家具」さんは昭和22年に道具屋として創業し、元町商店街に移転してから神戸家具を扱い始めた、ということです。3代目田村嘉久さんは、木が一番好きだと、言われます。材木として使える木になるまでに60年以上かかり、切り出されてから製材されて家具になるまでにさらに10年。せめてそれ以上の年月をかけて家具と人生を共にしてほしい、と田村さんは語られてます。
元町商店街五丁目、田村家具で、神戸らしいお洒落な、それでいて優しくて暖かな家具たちの、静かな息づかいに耳をそばだててみてください。
2022-11

いいね乙仲通り その2

先月号に引き続き、さらに奥深い乙仲通りをご案内したいと思います。
南京町を抜け南側のでは広い道路が栄町通りです。開港後1872(明治4)年に、この地が栄えますように、と名付けられたとり、1909(明治42)年に市電が走り始めると、たちまち経済の中心地になり「東洋のウォール街」と呼ばれるほど賑わいました。
その栄町通りと国道2号とに挟まれた東西約1㎞の通りが乙仲通りです。聞きなれない「乙仲」は税関で貨物を扱う事業者の略称です。が、この職種も戦後廃止されたにも関わらず、今だに「乙仲」が俗称として受け継がれています。
さて、ちゃんとしたランチがしたい時には、1912(大正元)年創業の「喜八」さんで、と教えてくれたのは、元町商店街の老舗の女将さんでした。
食後、デザートを食べたくて乙仲通りの数件西の「yellow」に行きました。こちらは昨2021(令和3)4月にできたばかりのジェラート屋さんです。以前は何のお店だったのか…。清潔でシンプルな店構え、ジェラートやソフトクリームの美味しさにたちまち虜になりました。キラキラした眼差しと嫌みのない対応の店員さんに、この美味しさの秘密を、聞いてみると、自社養鶏場でとれた卵を使っている、とのことです。合点がいきました。それから、私は毎週金曜日に届けられたばかり新鮮な卵を買いに行き、濃厚なたまごの卵黄のみのソフトクリームを食べるのが、週末の一番の楽しみになってます。
2009年にようやく愛称として認められて以来、この乙仲通は、ほどよく開発されていたり、そのまま残されていたり、の絶妙なバランスの良い界隈として進化しています。
大正レトロなお店と、また、まるでうみたて玉子のような顔をしたお店との共存が、心地い「やっぱり、いいね!」の乙仲通りです。

いいね!乙仲通り

 気になっていたことが整頓できて、やれやれ自分にご褒美がしたい、と思った週末。私の足は、やはり自然に乙仲通りに向きます。
 元町商店街から南京町を抜けると、さらに南側に平行して「栄町通」があります。開港後の1872(明治4)年に、この地が栄えますように、という願いの元に名付けられた栄町です。1909(明治43)年に市電が走り始めると、銀行や証券会社が軒を連ね経済の中心地になり「東洋のウォール街」と呼ばれるほど栄えました。
 その栄町通と国道2号とに挟まれた東西約1㎞の通りが「乙仲通」です。栄町通りと共に貿易会社や港湾運送業者などで賑わっていたようてす。聞きなれない「乙仲」は税関で貨物を扱う事業者の略称で、この法律で定められた職種も戦後廃止されましたが、今でも乙仲が俗称として受け継がれているところが、この界隈の面白さの原点かもしれません。
 さて、お昼時分はとっくに過ぎていて、どのお店もお目当てのランチは終わっていて、でも何かちゃんとした食事がしたい時に「喜八」さんの暖簾をくぐります。1912(大正元)年4月1日創業で現在4代目。栄町から乙仲辺りの栄枯盛衰を見続けている貴重な生き証人と思わせる設えの店内、映画のセットのようです。
 昼頃から夕方くらいまでの営業、日替わり料理がお重箱で出てきます。奇をてらうこともなく、どれもこれも手抜きのない品々、仕出し、か小料理屋さんで食べている感じで贅沢な900円です。
2022-09-30

喫茶あじさい 〜こんな隠れ家あったのね~

なんて居心地の良い空間なのだろう、と室内をぐるりと見まわしたくなるお店。
そこは、元町商店街の隠れ家的な喫茶店「あじさい」です。商店街に面した大きな時計屋さんの2階にあって、狭い階段をトントンと上がらなければならないので、誰でも目につくお店ではありません。
テーブルも椅子も、間仕切りなどの設えまで、一目で神戸家具かな、思われるもの。
美術館かと思われる立派な銅像、ガレの作品かと見とれてしまう美しい花瓶など、上質なアンティークのお店と勘違いしてしまうほどです。
元町散策をしていて、ほっとひと息したい時、少しお腹がすいている時、一人で本を読んでいたい時、雨の日に外の景色を、、眺めながらぼおっとしたい時、などには自然に足が向きます。
このお店は、リンゴのチョコレート「ポームダムール」で有名な「一番館」がしている直営の喫茶店で、半世紀以上も前から、神戸っこが静かに大事にしている御用達のお店です。
パスタのゆがき具合も柔らかすぎず、あんみつの添え物的な果物もおざなりではなく、甘過ぎないチョコレートドリンクにも驚きですが、私の、今の一番のお気に入りは、氷ミルクコーヒーです。
よい家具に身を置いて、鈴蘭灯を上から眺め、しばし一人の時間を楽しむことのできる稀有な空間です。
過度に丁寧過ぎないベテランの店員さんたちも、もしかしたら、神戸流かな…。
どこにも手抜きのない”高級茶房”はよく見ると、壁紙までが芸術的でした。

2022-8