神戸まぼろしの公会堂

 

六甲アイランドにある神戸ゆかりの美術館で、「神戸まぽろしの公会堂コンペ再現!~貴重な設計原図を一堂に~」が開かれています。
神戸は、モダンな街として発展してきましたが、その象徴として、現在の中央区大倉山に公会堂を建設する計画がありました。
市民からの、オペラや演劇などが鑑賞できる施設が欲しい、という要望を受けて神戸市は、戦前に二度、大正と昭和にコンペを開催しました。
ところが、最初の大正期は関東大震災による不況で、二度目の昭和戦前期は、日中戦争や阪神大水害などが相次いで、どちらもその計画は頓挫して、実際はどちらも建てられないまま終わり”まぼろしの公会堂”と呼ばれてきました。
文書館では、これらの実現する事のなかった2度のコンペの設計図を長年にわたり保管してていました。
今回の展覧会で、現存する設計原図を眺めることで、今まで知られることのなかった歴史の一面も垣間見ることができます。手書きの美しい図面から、今でも、こんな公会堂があれば素敵だと思わせるような設計図がたくさんあります。
“まぼろしの公会堂”、絵本のように楽しんでください。

特別展「神戸まぼろしの公会堂」2020 3.8まで
神戸ゆかりの美術館
毎週月曜日、年末年始(12月29日~1月3日)、1月14日(火曜日)、2月25日(火曜日)休館
入場料 一般800円
六甲ライナー「アイランドセンター」下車

布引の滝で”野点”しませんか

 

新神戸駅から山道を約20分ほど登ると、「布引の滝」4つの滝で一番大きな雄滝(おんたき)に着きます。
市街地からこんなにも近い所に、姿の美しい、雄壮な滝の景色に出会えるのは、全国的にも珍しいので、近年は日本各地からのみならず、欧米を中心に世界各地からの観光客が、「神戸の秘境」として訪れています。
さて「神戸布引 野点」として初めて開催されたのは、、2017(平成30)年5月でした。新緑と紅葉の頃に計画されて今回は4回目となります。
堅苦しくてハードルの高い”お茶会”ではなくて、コーヒーを飲むような感じで気軽に参加ができて、なお、茶事に親しんでもらいたい、と有本先生(表千家)が茶席を担当してくたさいます。
雄滝の水の音がBGM、という贅沢さです。
咳払いをしても、お茶碗を何回どちらに回しても、気兼ねをする事なく、登山の服装で参加してくださいね。
まずは、季節のならではの和菓子をいただいてから飲む「お茶」の美味しさ、は格別です。
行きは滝を眺めながら、帰りは、中央区では屈指の紅葉の名所の徳光院を抜けて下山が、おすすめです。
駆け足で過ぎて行く季節を、こんなにも近くで楽しむことができます。

日時:2019年 11月30日(土)一席10:20~
二席11:10~
三席~13:20~
四席~14:10~
(所要時間: 各30分)
場所:おんたき茶屋
※雨天決行
参加費:800円
定員:各席15名(椅子席)
申込み・問合せ:078(241)3484

須磨海浜水族園の記録映画「スマスイ」完成

市立須磨海浜水族園を舞台にした自主映画「スマスイ」が、8月上旬に 完成しました。
1957(昭和32)年に「須磨水族館」として開業し、1987(昭和62)年に建て替えられて「須磨海浜水族園」という現在の名称になりましたが、神戸っ子ならみんな大好き「スマスイ」のみならず、西の観光の拠点としても、長い間、市内外を問わず多くの人に親しまれてきました。
しかし、この全面改装からでも、すでに30年がたち、施設の老朽化が目立つようになり、全面改装し4年後に新装オープンすることになりました。
そこで、同園の職員やそれらの人の繋がりで広がった豊富な人脈の方々で、現在の施設の様子を記録として残しておこう、という計画がたてられました。
撮影は、まだ寒い2月から始まりました。
単なる記録ではなく、たくさんの人に愛された水族園だった、と記憶してもらえるような映画になった一園長さんは語られているとおり、水族園を取り巻く様々な世代の人の”人間ドラマ”に仕上がっています。
ちょっと異色な記録映画、とはいえ、やはり阪神・淡路大震災の被害を受けた場面は、目を覆いたくなるような惨状で、飼育員の方々の心中を察すると涙が溢れ、これこそが後世に残すべき悲しみの場面だと思いました。
さて、ユニークな陰の主役は誰でしょう?
これは、見た人にしかわかりません…。

上映は2019年9月1日まで水族園3階の特設シアターで
67分の作品で1日4回上映
観覧無料だが入園料は必要
9月以降は一般の映画館での上映予定
問い合わせは 078-731-7301

須磨離宮公園のハチミツ「RIKYU HONEY」

須磨離宮公園で、オリジナルの蜂蜜”百花密”ができました。
今までありそうでなかったこの計画は、養蜂を通じて、地域との活性化を図ろうという「bee kobe」プロジェクトの一環として実施されました。
“蜂の獣医さん”のいる養蜂業者との連携で、今年の3月に、蜜蜂の巣箱を置いて養蜂を始め、4月19日に初めての蜂蜜の採集ができました。
穏やかな性格の女王蜂を輸入し、一箱に一匹の女王蜂に対して、約3000匹のメスの働き蜂を入れた箱が10箱置かれ、そこから放たれた働き蜂たちは、園内ではなく背後の山の中にまで遠征して蜜を集めてきます。その働き蜂たちは、花粉と水だけで、毎日ひたすら女王蜂に仕えながら蜜を集め、50~60日で命果てるということで、何やら人の世界とも重なり、切なくなりました。
さて、この「Rikyu Honey」まずは、そのままスプーンに落として食べてみました。今まで味わったことのない、香りも豊かで、深くて濃い味です。これをさらに、プレーンなクラッカーに弓削牧場の生チーズを載せた上に、タラリと落として食べてみると、この蜂蜜の個性や癖を損なわないで、うまくコラボができて違った表情の蜂蜜になりました。あっさりと癖がなくサラリとしたアカシア系の蜂蜜、に慣れてきましたので、初めて”外国人の顔をした蜂蜜”に出会った、かのような新鮮な驚きでした。
百花蜜「Rikyu Honey」とはよく名付けられていて、涙ぐましいまでの働き蜂たちは、離宮を越えて行ってますから、4月なら山桜系、5月はアカシア混じり、6月はモチノキ系など季節ごとの特定できない変化の楽しみがあります。
4~6月まで6回採集された蜜は640kg。
110g(1200円)、170g(1800円)の瓶あわせて2280個分になりました。この蜂蜜は、同園内で購入することができますし、レストハウスのカフェ”ガーデンパタジェ”でも味わうことができます。
私は、この蜂蜜の瓶を見る度に、働き蜂さんたちは、公園と山を何度往復してくれたのだろうか、といとおしくなりながら、お礼を言っています。

田辺聖子さんの事

1964(昭和39)年「感傷旅行」で芥川賞を受けられ、2000年には文化勲章を受賞された田辺聖子さんが、2019年、6月6日に91歳で亡くなりました。
田辺さんは昭和3年に大阪の福島にあった写真館の長女として生まれました。1945(昭和20)年6月の大阪大空襲で自宅が
焼失、19歳から金物問屋さんに勤めて家計を助けました。
傍ら27歳のとき、学生や社会人、主婦など幅広い人たちが小説や詩やエッセイを学ぶ大阪文学学校へ通い始めています。
実は私も、1994年から、三宮の案内所の勤務を終えてから、大阪文学学校の詩、エッセイのクラスに数年間通って、書くことの勉強をしました。日本で一番古い、働く人のための文学修行の場であるということと、この学校から田辺聖子さんという偉大な作家が生まれた、ということが、学校を選ぶときの大きな動機になっていたことを、今でも思い出します。
田辺さんの当時の担当講師(文学学校ではチューターといいます)が、毎週一回の、生徒の作品を持ち寄りお互いに合評をする授業にも100枚近くの作品をエネルギッシュに提出されていた、と言われていますので、どれ程の体力と気力で書かれていたか私には容易に想像できました。
1966(昭和41)年、神戸市兵庫区荒田町の開業医川野純夫さん(2002年死去)と結婚して、いきなり四人の子どもを持つことになりましたが、婚姻届けを出さず事実婚を通されていたとの事を知り、時代の先取りをされていた生きざまも知り驚きました。
「深いことを軽く、やさしく、面白く」が書く時の姿勢で、
軽妙な文章に加えて、人間への眼差しのやさしさを貫かれていたことは、「新源氏物語」を再読してみてもよくわかりました。
神戸市内の病院で亡くなられたその翌日、お身内でのお別れ会をされる所に、私も偶然行き合わせる事になりました。
大阪文学学校への入学から、田辺聖子さんに導いてもらったことも、また、最後、田辺聖子さんが眺められていたであろう同じ神戸の街の景色の中に、自分がいたことが不思議でなりません。
「時代の精神を歌う中島みゆきと、時代のライフスタイルを歌うユーミンを足したような人」が田辺聖子さんだと、いつもは辛口のライターさんが書いていたコラムに、深く頷きました。

さんちか 花のある空間

神戸で初めての地下街「さんちか」(昭和40年に出来た時はさんちかタウン)は、これまで、少し時代の少先取りをするために、斬新な企画や提案をしながら”街づくり”をしてきました。
例えば、JR三ノ宮駅、阪急三宮駅から繋がっている、大きなエスカレーターのある広場には、開業から五周年に「泉のある広場」(昭和45年)を造り、2年後の昭和47年には「彫刻広場」として360度どこからでも鑑賞できるARBA象を設け、多くの人に待ち合わせの場所として親しまれました。
現在も、見上げるようなな生け花や季節ごとのオブジェなど、常に注目されるようなさんちかならではの取り組みをしてきました。
二十周年には、メインストリートに面して「インフォメーションこうべ」という、市政・余暇・住宅相談のできる案内所を作りました。
さて、さんちかの通路や広場、階段には、一年中、通り行く多くの人に和みや安らぎをさりげなく演出している”花”があります。
これは、「さんちかタウン」が開業した時(昭和40年)からずっと神港農園芸さんがお世話されています。
太陽の光も風もなく、数十万人の人が行き交う通りで埃をかぶり、苛酷な条件の下で、いつも枯れた葉や萎れた花と丁寧に向き合われています。
駅を降りると、ほのかに、さんちかの広場近くから良い香りがしてきました。
階段の所に植えられているジャスミンでした。
花は、人の思いに応えるものだと思いながら、毎日感謝しながら階段を登り降りしています。

相楽園会館

北野の街並みからほんのわずかしか離れていない所に位置する日本庭園「相楽園」、元は、1885(明治18)年頃から着手されて1911(明治44)年に完成した、小寺泰次郎氏の邸宅でした。第11代神戸市長小寺謙吉氏の先代にあたる人です。
神戸市に譲渡され、「相楽園」と名付けられたのは1941(昭和16)年のことです。それまでは、「小寺邸」とか「蘇鉄園」と呼ばれていました。
神戸市が管理している重要文化財6つのうち、相楽園には「旧小寺家厩舎」「舟屋形」「旧ハッサム住宅」があります。
日本式の庭園ですが、正門から入ると、樹齢300年を越えるものも含め100株以上の見事な蘇鉄が迎えてくれ、なんとなく和風のなかに、南国的な不思議な雰囲気を醸し出しています。
相楽園の中にあり、55年に亘り、神戸市の迎賓館として交流の歴史を重ねてきた「相楽園会館」が、2018年12月12日に「THE SOURAKUEN」として生まれ変わりました。ウエディングやレセプション、予約制のレストランやパーティースペース、カフェなどがあります。
北野クラブ、ソラなどを手掛けている「クレ・ドゥ・レーブ」社が、伝統の上に革新的な味付けをして、リニューアルして開業しました。
カフェ「相楽園パーラー」で、ようやく念願のランチをしてきました。
6000坪の見事な庭園を眺めながらの贅沢な空間は、依然として変わりありませんでした。
林立するビルを借景の「相楽園」、真新しい風も愉しむことができました。
まさしく、あい楽しむ「相楽園」です。

須磨離宮公園の優雅なひととき

離宮公園は、元を辿っていくと、シルクロード探検で有名な大谷光瑞の西本願寺月見山別邸でした。ここを背後の山林と共に宮内省(当時)が買収し、天皇のご宿泊の為の別荘「武庫離宮」が完成したのは大正3年のことです。しかし、昭和20年その広大な敷地の総桧造りの御殿は戦災で焼失し、神戸市に下賜されて現在の離宮公園が完成したのは昭和42年のことです。
欧風噴水公園を間近に眺められるレストハウスは、開園当初からありましたが、「花離宮」として親しまれていた頃からだと、実に37年ぶりにリニューアルされて、ダイニング「GARDEN PARTAGE (ガーデンパタジェ)須磨離宮」が2月8日にオープンしました。大きなガラス窓からは、まるでベルサイユ宮殿にいるかのような庭が噴水越しに眺められ、私は今どこにいるのだろうか、と錯覚さえ覚えそうです。六甲山の市有林から伐採された間伐材が、テーブルや壁やカウンターに再利用され新たな命を紡いでいることも、心地よい空間に一役かっています。
神戸市内でも、すでにウエディングレストランやカフェなど手がけられている中村さんが、「この場所で」とこだわられての展開です。空間の創りかた、またひとつ一つに思いを込められたお料理は、ただキレイなだけではなく、どれもこれもここに来られた人が笑顔になるようなステキなものでした。
パタジェは、分かち合うという意味の造語です。
一人で静かに座って、深い歴史を持つ離宮公園に身を置いてみると、誰かとこの光、時間、空間を分かち合いたくなりました。
離宮公園には、山陽電車「月見山駅」から、私が最も好きな道、”薔薇の小道”を、道に設えられている薔薇の案内板をたどりながら歩いてくださいね。
須磨離宮公園 078-732-6688 木曜日休園
2019年2月22日

生田神社のこと

生田神社(西暦201年創建)は、初詣だけでなく、通年人気のスポットです。
元は、新神戸駅の背後にある砂山(いさご)にありましたが、約1200年以上前の水害で倒れた松が社殿を押し流してしまった、という伝承があり、それ以来、松は頼りにならない不吉なものになってしまいました。そのため、新年は、本来は神様が降りてくる階段のような役割の松を使った「門松」ではなく「杉盛り」が使われています。境内には一本の松の木もなく、くすのきが生い茂っています。この全国的にも珍しい「杉盛り」は、今や多くの人に知られるようになりました。
さて、神社の一番奥にあるのが第三鳥居で、東急ハンズの近くにあるのが第二鳥居、かつて生田神社の参道だったセンター街の南にあるのが第一鳥居です。この中で唯一朱色でないのが第二鳥居です。今年で阪神・淡路大震災から24年になりますが、
生田神社も拝殿も倒壊、また石の第二鳥居も根元から崩れてバラバラに折れました。復興を急ぐ生田神社に届けられたのが、式年遷宮で使われなくなった古財でした。再利用された鳥居は2015(平成27)まで使われて、引退しました。それから、再び伊勢神宮から、すでに60年間使われたものなので、内部に鉄骨や樹脂を入れて補強して、表面を化粧直ししてから使われているのが、白木のままの今の第二鳥居です。
こんな繁華街のまん中に、1800年以上の由緒のある神社があるのも神戸の人の誇りですが、伊勢神宮どのゆかりもある、ということもわかると、美しい木の肌の鳥居をくぐるのも何とはなしにさらにご利益があるような気がします。

2019年1月25日号

「米処 穂~みのり~」の話

元町5丁目に、去年できたばかりの”おにぎり屋さん”が「米処 穂」です。ずっと気にながらやっと行くことができました。
栄町通りに面した角にある風格のあるビルの一階に、お店はあります。
この建物は、大正年10年に帝国生命保険神戸出張所として建設。その後、日本放送協会関西支部神戸出張所(現NHK神戸支局)が、神戸地区最初の放送基地として産声をあげ、昭和24年まで活動、平成16年には国の登録有形文化財に登録されました。
この地域の語り部として大切にされているこのビルで「米処 穂」をされているのは、1902年に創業のコメ卸業、「神明」です。今年で創業116年という歴史を持ちながら、保守的なコメ業界の中で、”コメの総合カンパニー”を目指し、さまざまな取り組みを行っているのが「神明」さんです。
ブレンド米”あかふじ米”を流通させるなどは業界初の試みで、次々と改革を起こしてきました。
さて、お店はというと、天井が高く素敵な空間は、まるでお洒落なカフェバーのようです。
清潔な店内できびきびと働かれている店員さんも感じがよくて、しばらくみとれていました。
日本で一番高価とされている銘柄”いのちの壱”をもおにぎりにされています。丁寧に炊かれたお米は、一旦お櫃に移されて、余分な水分を吸わせてから握られたおにぎりは、ただ美味しいというのではなく、やさしい味わいでした。
私には、おにぎりにまつわる深い思い出がたくさんあって、外で食べたいと思ったことがなかったのですが、初めて、このお店でおにぎりを食べてみたい、と思いました。
神戸市中央区元町通5-2-8
☎078-371-2888

2019年1-1