いよいよカレンダーが最後の一枚になった、のに昼間は汗をかくような暖かさの日が続きました。そういえば、11年前に母を見送った日も小春日和で、斎場で黒いロングコートを脱いだことをふと思い出しました。
そんなある日、小学校の時の同級生たちと、須磨浦公園で待ち合わせをして、旗振り山までダラダラ坂道を登るという予定で、あとは行き当たりばったりのゆるゆるな計画です。
御料地だったこの辺り一帯の、鉢伏山、鉄枴山を含む広大な須磨浦公園が払い下げられたのは、1924(大正13)年。その後、現在のような林道が整備されたのは4年後のことです。
毎年2000人ほどの人が参加する六甲全山縦走大会のスタート地点でもあるこの場所は、今から330年以上も前に、大阪から尼崎経由で、松尾芭蕉も44歳の時に訪れ鉄枴山まで登っています。が、山羊の腸のような曲がりくねって険しい山道を滑りながら息を切らして難儀して辿り着いた、と滑稽に紀行文の中で描写しています。
さて、私たち一行もくねくね、ダラダラと登り、日本一乗り心地の悪いカーレーターにガタガタ乗って,旗振山(252.8m)を目指しました。100年近く前からの歴史のある旗振茶屋の森本さんにご挨拶して、甘酒でひと息つきました。
江戸中期から大正初期に電信が普及するまで、岡山から堂島まで米相場を、時速500キロという速さで旗を振って伝えた、という旗振山からの景色は、広範囲で見通しが良く見事です。そこからさらに、六甲全山縦走路を進み鉄枴山の手前から、鵯越の坂落とし、と言われている道のひとつを降りました。
古い伝統と歴史のある枚方市立樟葉小学校では、珍しい転校生だった私のことを、はじくことなく受け入れてくれて、なにくれと面倒見てくれた同級生たち。
10歳の頃の面影が、半世紀を経ても残っていて、神戸でこうして集うことのできる、不思議なしあわせを感じながら、急な坂道を転げないように、そろり、そろりと下りました。
1923-12
ある読書会のこと 「灯をともす言葉」 井戸書店にて
読書会に参加するのは久しぶりのことだった。
神戸外大で指導されていた先生を中心に、資本論から落語まで、様々な
分野の本を取り上げて議論する読者会が、コロナ禍で中断されたままだったので、ドキドキしながらの参加だ。
私にとっては初参加の読書会のことは、このDジャーナルのお知らせ記
事で知って参加してみたいと思った。神戸出身の花森安治さんの「灯をと
もす言葉」(2013年初版)が課題図書とい
うことも背中を押してくれた。
前日にようやく手にした本は、どこからでもあっという間に読めて、そし
て、キャッチコピーのような短いフレーズは、時に詩のようでもあり、ぐ
いぐいと心に刺さってくる。戦後から昭和40年代くらいに書かれた花森さ
んのメッセージは、今でも、今だからこそ響くことも多い。
1948年に「美しい暮しの手帖」(のち「暮しの手帖」には改題)を
創刊。取材執筆から表紙装釘、誌面のデザインまで自ら手がけた。
そのデザインは、シンプルで可愛いのに、おしゃれで今でもその斬新
さに目を見張る。そして何より、広告料をもらわないで、商品のモニター
を行い、読者に洗濯機や掃除機やストーブなど商品についての知識を提供し続け、雑誌の革命児だった「暮しの手帖」は、75年経った今でも色褪せない。
この読書会の場所を提供してくださったのは、板宿の「井戸書店」
の3代目店主、森さん。〝感動伝達人〞としての書店を理念とされてい
て、街中から消えつつある古き良き時代の街の本屋さんとして、いろん
なイベントをされている。
ふらりと立ち寄って、心の底から感動する本に出会えそうな予感のする
本屋さん、私もここで、心に灯りがともった。
井戸書店
2023-11
那須与一の墓所、那須神社
昔から、私の勤める案内所には珍しいお問い合わせが時々あります。
ここもその一つで、今回は、「ここに参拝するとシモのお世話にならない」という不思議な言い伝えのある「那須神社」を訪れてみました。山陽電車「板宿」駅で下車して市バス5系統に乗り、約15分で「那須神社」に着きます。
わずか二車線の狭い道路は、通称”三木街道”(県道神戸三木線)ですが、行き交う車両のあまりの多さにびっくりしながら道路をなんとか横断して、「那須神社」にお参りしました。
いかにも地元の方々が守ってこられたという風情の、素朴な神社です。
那須与市宗隆は、下野国(栃木県)で生まれ、わずか10歳で弓を射る才能を得ました。源平合戦に際して、12歳で源義経から源氏入りを誘われ、数々の戦陣に加わりました。
屋島の合戦では、平家方の扇に弓を命中させたという逸話で一躍注目された若武者です。
晩年に、与市は源平合戦で亡くなった武士たちを弔う旅に出ましたが、その道中で「中風」を患い、この地で亡くなった、と伝えられています。半身不随になり、村人からシモの世話になりながら息を引き取った与市。
村人が自分と同じようにならないように、との強い思いを抱いていたのては、ということから、いつの間にか「シモの世話をかけすに往生できる」という言い伝えに繋がったようです。
9月7日の与市の命日や月命日には、下着、はんこを押してもらう人もいたようですが、今ではその数も少なくなったようです。那須神社の向かい側に墓所があります。
2021-12
須磨浦ロープウェイがリニューアルしました!
2020年11月4日から須磨浦ロープウェイのリニューアル工事のため、須磨浦山上遊園も休園していましたが、いよいよ2021年3月25に全面営業再開します。
須磨浦ロープウェイは1957(昭和32)年9月に開業しました。
ゴンドラ2台(定員30人)で、高低差約180mを3分15秒で結び、2019年度は約14万人が利用していました。
毎年12月に安全のためゴンドラやワイヤなどの定期点検を更新していましたが、制御装置は開業時のままの手動を使っていました。しかし、今後も同じようなメンテナンスを続けることが難しくなってきたので、自動化が決まりました。
開業から63年間使い続けられた制御装置は新しく自動式になり、麓の山陽電鉄須磨浦公園駅と須磨浦山上遊園は、15秒短縮されて約3分で結ぶことになります。
2007(平成5)年に新造された3代目のゴンドラ「うみひこ」(白)、「やまひこ」(赤)はそのままで、海と山と空の景色を眺めながら、山上の昭和レトロな世界まで運んでくれます。
”乗り心地の悪さ”で有名な「カーレーター」や、「回転展望台」はそのままですが、山麓側の売店や乗車券売り場は改装されて、神戸ならではのスイーツやゴンドラなどをかたどったキーホルダーやボールペンも新たにデザインされて販売されます。
これから桜だけでなく新緑も楽しむこともできます。また来年の元旦には、初日の出も楽に楽しめそうですね。
手動式の時とは違った乗り心地も体験してください。
3月~10月:10時~18時。毎週火曜日休園
◯078(612)2067
2021-3
須磨海浜水族園の記録映画「スマスイ」完成
市立須磨海浜水族園を舞台にした自主映画「スマスイ」が、8月上旬に 完成しました。
1957(昭和32)年に「須磨水族館」として開業し、1987(昭和62)年に建て替えられて「須磨海浜水族園」という現在の名称になりましたが、神戸っ子ならみんな大好き「スマスイ」のみならず、西の観光の拠点としても、長い間、市内外を問わず多くの人に親しまれてきました。
しかし、この全面改装からでも、すでに30年がたち、施設の老朽化が目立つようになり、全面改装し4年後に新装オープンすることになりました。
そこで、同園の職員やそれらの人の繋がりで広がった豊富な人脈の方々で、現在の施設の様子を記録として残しておこう、という計画がたてられました。
撮影は、まだ寒い2月から始まりました。
単なる記録ではなく、たくさんの人に愛された水族園だった、と記憶してもらえるような映画になった一園長さんは語られているとおり、水族園を取り巻く様々な世代の人の”人間ドラマ”に仕上がっています。
ちょっと異色な記録映画、とはいえ、やはり阪神・淡路大震災の被害を受けた場面は、目を覆いたくなるような惨状で、飼育員の方々の心中を察すると涙が溢れ、これこそが後世に残すべき悲しみの場面だと思いました。
さて、ユニークな陰の主役は誰でしょう?
これは、見た人にしかわかりません…。
上映は2019年9月1日まで水族園3階の特設シアターで
67分の作品で1日4回上映
観覧無料だが入園料は必要
9月以降は一般の映画館での上映予定
問い合わせは 078-731-7301
須磨離宮公園のハチミツ「RIKYU HONEY」
須磨離宮公園で、オリジナルの蜂蜜”百花密”ができました。
今までありそうでなかったこの計画は、養蜂を通じて、地域との活性化を図ろうという「bee kobe」プロジェクトの一環として実施されました。
“蜂の獣医さん”のいる養蜂業者との連携で、今年の3月に、蜜蜂の巣箱を置いて養蜂を始め、4月19日に初めての蜂蜜の採集ができました。
穏やかな性格の女王蜂を輸入し、一箱に一匹の女王蜂に対して、約3000匹のメスの働き蜂を入れた箱が10箱置かれ、そこから放たれた働き蜂たちは、園内ではなく背後の山の中にまで遠征して蜜を集めてきます。その働き蜂たちは、花粉と水だけで、毎日ひたすら女王蜂に仕えながら蜜を集め、50~60日で命果てるということで、何やら人の世界とも重なり、切なくなりました。
さて、この「Rikyu Honey」まずは、そのままスプーンに落として食べてみました。今まで味わったことのない、香りも豊かで、深くて濃い味です。これをさらに、プレーンなクラッカーに弓削牧場の生チーズを載せた上に、タラリと落として食べてみると、この蜂蜜の個性や癖を損なわないで、うまくコラボができて違った表情の蜂蜜になりました。あっさりと癖がなくサラリとしたアカシア系の蜂蜜、に慣れてきましたので、初めて”外国人の顔をした蜂蜜”に出会った、かのような新鮮な驚きでした。
百花蜜「Rikyu Honey」とはよく名付けられていて、涙ぐましいまでの働き蜂たちは、離宮を越えて行ってますから、4月なら山桜系、5月はアカシア混じり、6月はモチノキ系など季節ごとの特定できない変化の楽しみがあります。
4~6月まで6回採集された蜜は640kg。
110g(1200円)、170g(1800円)の瓶あわせて2280個分になりました。この蜂蜜は、同園内で購入することができますし、レストハウスのカフェ”ガーデンパタジェ”でも味わうことができます。
私は、この蜂蜜の瓶を見る度に、働き蜂さんたちは、公園と山を何度往復してくれたのだろうか、といとおしくなりながら、お礼を言っています。
須磨離宮公園の優雅なひととき
離宮公園は、元を辿っていくと、シルクロード探検で有名な大谷光瑞の西本願寺月見山別邸でした。ここを背後の山林と共に宮内省(当時)が買収し、天皇のご宿泊の為の別荘「武庫離宮」が完成したのは大正3年のことです。しかし、昭和20年その広大な敷地の総桧造りの御殿は戦災で焼失し、神戸市に下賜されて現在の離宮公園が完成したのは昭和42年のことです。
欧風噴水公園を間近に眺められるレストハウスは、開園当初からありましたが、「花離宮」として親しまれていた頃からだと、実に37年ぶりにリニューアルされて、ダイニング「GARDEN PARTAGE (ガーデンパタジェ)須磨離宮」が2月8日にオープンしました。大きなガラス窓からは、まるでベルサイユ宮殿にいるかのような庭が噴水越しに眺められ、私は今どこにいるのだろうか、と錯覚さえ覚えそうです。六甲山の市有林から伐採された間伐材が、テーブルや壁やカウンターに再利用され新たな命を紡いでいることも、心地よい空間に一役かっています。
神戸市内でも、すでにウエディングレストランやカフェなど手がけられている中村さんが、「この場所で」とこだわられての展開です。空間の創りかた、またひとつ一つに思いを込められたお料理は、ただキレイなだけではなく、どれもこれもここに来られた人が笑顔になるようなステキなものでした。
パタジェは、分かち合うという意味の造語です。
一人で静かに座って、深い歴史を持つ離宮公園に身を置いてみると、誰かとこの光、時間、空間を分かち合いたくなりました。
離宮公園には、山陽電車「月見山駅」から、私が最も好きな道、”薔薇の小道”を、道に設えられている薔薇の案内板をたどりながら歩いてくださいね。
須磨離宮公園 078-732-6688 木曜日休園
2019年2月22日
日本ではじめての水族館
神戸には、日本で初めてと、言われているものや施設などがあちこちにあります。今回は、「神戸市立須磨海浜水族園」の歴史をたどってみました。
京都で第4回 内国勧業博覧会が明治28年に行われた時に、これに協力した神戸市が博覧会付属の施設として、和田岬の遊園地「和楽園」に「和田岬水族放養場」を開きました。このときは身近な鯛やヒラメ、イカなどが水槽に放たれているようなイメージの展示でした。この博覧会を見物に来て、好意的な随筆を小泉八雲が書いています。
さて、この2年後の明治30年に、第2回大日本水産博覧会が和田岬で開かれた際に、「和楽園」内に会期中に限って水族館が作られました。海水の水槽にポンプやバルブなどのある本格的な循環ろ過装置を備えていました。この「和楽園水族館」が、日本初の本格的な水族館とされています。その後、明治35年に湊川神社に移転されたり、昭和5年には湊川公園に作られたりしましたが戦争で焼失しました。
昭和32年、須磨に当時東洋一の規模の「須磨水族館」が誕生。現在の「須磨海浜水族園」となったのは、昭和62年です。
さて、今年で3期目になり”神戸須磨アクアイルミナージュ”が2月12日まで開催されています。
入園料はそのままで、夜も含め魅力的で、かつ歴史のある水族園を楽しんでください。
沖縄の島守 島田叡(あきら)氏のこと
島田叡(あきら)
須磨区出身、
西須磨小学校、
兵庫高校卒
一島田叡氏顕彰碑 除幕式に参加して一
神戸で生まれ、神戸で育った島田叡。第二次世界大戦末期、国の命令で沖縄に赴いた最後の知事です。
島田が内示を受けたのは昭和20年1月、その3ヶ月前に那覇市は空襲でほとんどの家屋が焼きつくされていましたから、当地へ赴くことは死にに行くようなもので、家族の反対を押しきり、単身での赴任でした。
米軍上陸の目前に、飢える県民のために台湾米を確保に奔走したり、疎開に尽力したりと住民と苦難を共にし、米軍の砲撃の下県職員らと壕を転々と敗走しました。
6月、後方に大平洋が広がる激戦地、糸満市の摩文仁のあたりまで追い詰められて消息を絶ちました。
島田の没後70年を前に、2013年から協力を呼び掛けられて、三万人以上の署名と一千万円近くの寄付が集まり、「顕彰碑」が建立されました。
6月26日気温31度の南国の夏空の下、那覇市奥武山公園(おうのやまこうえん)で、井戸敏三兵庫県知事と翁長雄志沖縄県知事、久元神戸市長、また島田の出身校旧制神戸二中(現県立兵庫高校)の関係者ら約400人が出席して除幕式が執り行われました。
那覇高等学校合唱部(女声)による献奏が流れてくると、ぬけるような青い空とは裏腹の、美しく物悲しい旋律に思わず涙が溢れてきました。
この日は、島田叡が僅か五ヶ月足らず、沖縄最後の官選知事として赴き、もはやこれまで、と自決したといわれている日です。
4年前より兵庫県教育委員会から中学生に配布している道徳の副読本「心かがやく」では「戦場の県知事島田叡さん(陳舜臣氏執筆)」を掲載。中学生がいる家族の人はぜひ一緒に読んでみてください。市内各図書館でも閲覧できます。
2015-7-17