虹の石 ~後藤比奈夫さんのこと~

 

2020年6月5日に、俳人 後藤比奈夫さんが亡くなられました。1917(大正6)年生まれですから、103歳でした。
私が高校生の時に、現代国語の教科書で習ったことのある人でした。その俳句の世界では有名な重鎮の後藤比奈夫さんとの、間接的な出会いの始まりは、今から25年あまり前のことです。
風の強い寒い日に、老夫婦が案内所に来られ、「後藤先生の虹の石の句碑は、何処にありますか?」と尋ねられました。
その時、恥ずかしいことに、私はその存在を知らなくて、調べるのにしばらく待って頂きました。
そして、ようやく東遊園地の南東あたりにあることがわかりました。
しかし、他所から来られ、この辺りに詳しくない人が行くのはたいへんだろうと、ご一緒することにしました。

「虹の足とは ふ確に美しき 比奈夫」
と刻まれた句碑は、大きな手水(ちょうず)鉢のような彫刻作品でした。

 

句碑~虹の石~(彫刻作品)。
文学とアートのコラボレーション
造形作家 河口龍夫氏作
(神戸出身)

この句碑は、ご自身の目で確かめて、感じて頂くのが一番。東遊園地の東、フラワーロードにあります。

神戸出身の有名な造形作家、河口龍夫氏による作品で、くり貫かれた黒御影石の、底に俳句が彫られていています。
後藤比奈夫さんの俳句は、水面越しにゆらゆらと見えています。
でも、時には、空や、落ち葉や近くの大きなくすの木などが映っていますから、意識しないで歩いていると、うっかり通り過ぎてしまうこともあります。
お二人は、その美しい句碑との出会いを、とても喜んで帰られました。
後藤比奈夫さんの主宰されていた俳句の会に、徳島から参加されて、
帰路、一目「虹の石」を見ておきたかった、ということが、後に頂いた葉書でわかりました。
その後、ご縁があって、後藤比奈夫さんのお孫さんにあたる
和田華凜さんと出会い、少し俳句を習う機会もありました。
句碑で、これほど素敵な句碑は他にはないように思われて、私は今でも、あの日に偶然訪ねて来られた老夫婦に感謝の気持ちでいっぱいです。

クリスマスローズ そんなに 俯くな

六甲山にも それなりの 登山地図

集団で してゐる主張 吾亦紅(われもこう)

アネモネの 好きな彼女を 思い出す

など、4年前の後藤比奈夫句集「白寿」から、ワクワクとドキドキの作品を選んでみました。

山手街園(バラ園)

気がつけば花の盛りを今年は一度も目にしないまま、季節は過ぎようとしています一という文章に、目が留まりました。桜のお花見のことに触れてのエッセイの一部でした。
お花見どころか、マスクをして、すれ違う人たちともなるべく一定の距離を置いて、という自粛の新しい生活スタイルが、次第に身についてきました。が、逆に、名前もわからないような小さな花や、道端でふと見つけた雑草でさえいとおしく感じますね。
今回は、目にいっぱいのバラの花に癒されるスポットをご紹介したいと思います。

昔から多くの人が行き交う主要幹線の中山手通りに、ひときわ目を引く花園があります。
この「山手街園」(以降通称のバラ園に)が造られたのは、昭和39年頃のこと。
ちょうど戦後の復興期で、街にひとときのやすらぎを、と自宅でバラの育成を手がけていた筑紫六郎さんの寄付金をもとに、神戸市が窓口となって「神戸市街頭バラ園創成基金協会」を作り、街頭にバラを植樹することになり、生まれたのが山手バラ園です。
当時から街路樹といえば、アオギリやヒラドツツジ、アベリヤなどと決まっていて、このようにバラは珍しかったそうですが、今でも、緑地帯にバラを植えている例はほとんどありません。
協会は昭和55年に解散しましたが、その後の管理は神戸市に引き継がれました。現在の山手バラ園は平成4年に改修され、約500㎡の園内には、15種550株のバラが5月から11月まで咲き継ぎます。
とりわけ、今5月は見事なバラを愛でることができます。
誰でも通りすがりに、また車の中からでも見ることができます。
こんなときだからこそ、みんなでわざわざではないお花見を
楽しんでください。
山手街園(バラ園) 中央区中山手通4丁目

「神戸史話」から ~”黒い死”ペスト~

世界中でコロナと闘っているような毎日。
「神戸市総合インフォメーションセンター」もついに臨時休館になり、粛々と資料整理はしながら半分は在宅勤務の指令です。
テレビ体操で身体を整え、暫く目の行き届かなかった庭の片隅で、ひっそりと咲いていたシランやクジャク草やラベンダーに感動しています。そして、普段読めなかった本と向き合っています。
4月1日に亡くなられた、文芸評論家であり、郷土の作家の発掘にも尽力された宮崎修二朗さんから頂いた「神戸史話」の中から、今の状況と合わせて興味深く引き込まれた「”黒い死”ペスト」の章を抜き書きしたいと思います。

一ネズミを見たらペストと思え一。
明治三十二年十一月、神戸市民はネズミを目のかたきにし  て追いかけた。ネズミはおそるべきペスト禍をまき散らす凶悪犯だった。
その年十一月八日夜、市内葺合区浜辺通五丁目、網干屋藤井重三郎所有の米倉で働いていた店員、山本幸一(十三歳)が、突然高熱を発し二日後、衰弱して死んだ。つづいて同区内の五人が急死。いずれも症状は同じだ。しかし、それがペストと呼ばれる恐ろしい伝染病によるものとは、だれも気がつかなかった。
山本少年の死体解剖で、真性ペストとわかってから、神戸市民は”黒い恐怖”にちぢみ上がった。県知事は十一月十七日、県報号外で予防を告示。神戸港和田岬の海港検疫所で出入船舶の検疫を強化、乗降客の臨時検疫を行なった。汽車の乗客にたいしても三ノ宮、神戸、兵庫の各停車場に防疫班を出張させて検疫。
……
犠牲者とひろがった。葺合区を中心に、……元町、栄町など十一月中の患者二十二人。うち九人が死に、新聞は連日「黒死病」を報じた。
皮肉なものである。日本最大の貿易港にのし上がり、流行の窓口だった神戸が日本で初めてペストの侵入を許した。コレラは明治十年以来、幾たびかの大流行を体験ずみである。だから、前年コロンボ、シンガポールなどにペストの流行を伝えられたときから。水ぎわ作戦に徹底を期した。同年五月、米船ペルー号が神戸へ入港、船内でペストが発見されると、完璧な足どめ作戦で”撃退”に成功してひと息ついた矢先だった。
……
神戸全市に非常事態宣言が発せられ?「ネズミ一匹五銭で買い上げます」のようなビラ五万枚が配られた。同時に、菌が足につくというので”はだし禁止令”が出され、古タビを集めて半強制的にはかせられた。
……
そうしているうちにも、ペストは大阪阿部野橋へひろがり、十二月には岐阜、沼津と東斬。

カミュの「ペスト」よりも、はるかに真実味のある正確な歴史の記録です。
「神戸史話」編集 落合重信 有井基
昭和四十二年発行

ペスト騒動のその後、昭和四十二年には内務省から”飼いネコ奨励”の通達が書く府県に出されています。
これは、120年ほど前、日本で最初にペストが上陸した神戸での様子です。慌てた当局の対策がネズミ退治で”ネズミ成金”も出た、というまさしく悲喜劇が、つぶさに記されていました。
カミュの「ペスト」(1947年発表、ペストが蔓延して閉鎖された都市の人間模様が描かれている)とあわせて読んでみると一層興味深いです。

神戸のいちご

神戸市内でのいちご狩りが、いよいよ、3月20日から本格的に始まります。
北区の、有野町二郎、大沢町上大沢、淡河町中山、長尾町上津の4地区には、23ヵ所の農園があります。
そもそも、神戸でのいちごの栽培は大正10年頃、有野町二郎で始まりました。歴史を遡ると、兵庫県におけるいちごの発祥は鳴尾村(現在の西宮市)で、明治の37年頃から昭和の初め頃まで盛んでした。その当時、有名だった鳴尾の生産者さんから苗を分けてもらって栽培を始めたのが有野いちご部会会長の滑浦さんのお父さんでした。
二郎で、関西で初めての”いちご狩り園”が開園したのは昭和35年頃のことです。
このあたりで、いちごの栽培が盛んになったのは、六甲山からの豊富な伏流水と、水はけの良いさらさらの砂地、それに昼夜の寒暖差が大きい、という自然環境がいちごの栽培に適していたからです。いちごの登録品種は150種以上ありますが、神戸では、大きくて甘さが人気の「章姫」、「さがほのか」、「紅ほっぺ」など約10品種が栽培されています。
これらのいちごは、ほとんどスーパーなどには卸されていませんので、いちご狩りで味わうか、直販所で求めてくださいね。
6月上旬まで開園予定、午前10時から午後1時まで
入園時間は45分間、大人1700円小学生1500円
078-961-2650まで
新型肺炎コロナ対策として、手洗いとビニールハウス内の換気は申し合わされています。
いちごで笑顔になりましょう!

「神戸市民山の会」のこと、知っていますか?その2

毎日登山の会や、各地に支部を置いている「神戸ヒヨコ登山会」などをまとめて、神戸市全体の組織として「市民山の会」ができたのは昭和23年のことでした。
神戸市民のレクリエーション活動として、登山を通じた健康づくりが目的に神戸市がしていますから、誰でも参加することができます。
原則毎月第3日曜日に集合場所に行けばよいので、一人ではなんとなく心配だけれど、せっかく六甲山の豊かな山懐に住んでいるのだから山歩きを楽しみたい、という人には良い機会になります。年間通じた毎月の行程は、ヒヨコ登山会のベテランの達人のアドバイスで、季節や歴史や楽しさなどの要素が十分に考えられ、そのうえに、一般向、家族向も考慮されて年間通じて六甲山の東から西までうまく計画されています。
次回2月16日日曜日は、阪急岡本駅午前9時集合で、約6キロの一般向向きコース、「梅咲く保久良神社」岡本八幡神社広場~見晴らし展望所~保久良神社までのコースです。
私は、「市民山の会」で安全で楽しい道を自分の中で学習して、後日その道を復習しながら独り歩きを楽しんでいます。
ぜひ、六甲山歩きを楽しむための、第一歩を、またかつてはよく山歩きしたのだけどね、という方も気軽に参加してみてくださいね。

「神戸市民山の会」のこと、知っていますか?その1

 

神戸ほど、山と海がバランスよく仲良く配置されている大都市は他に見当たらないように思います。
今日はちょっと山登りでもしようか、と急に思い立っても、どこからでも、すぐに山にとりつくことができます。
というのも、六甲全山縦走路、太陽と緑の道、山麓リボンの道、徳川道など眺めているだけでも楽しくなるような道が、きちんと整備され手入れされて、縦横に走っているからです。
さて、私もある日曜日、用事を済ませたのが10時で、一旦もう今日は無理かなぁ、と諦めかけたのですが、思い直し「市民山の会」に参加することにしました。
新神戸駅9時集合にはとても間に合わなかったので、元町駅山側から大師道を逆走して、すでに出発して数時間で再度公園でお昼休憩をして下山してくる一行を待ち受けることにしました。大師道を登り詰めた所の猩々池で、この日の参加者243人と合流して、再び諏訪山公園まで下山しました。それでも、2時間半で11キロ約18000歩は歩いていました。
心地よい汗をかいて自分としては大満足の休日でした。
毎日登山の会や、各地に支部を置いている「神戸ヒヨコ登山会」などをまとめて、神戸市全体の組織として「市民山の会」ができたのは昭和23年のことでした。
神戸市民のレクリエーション活動として、登山を通じた健康づくりが目的に神戸市がしていますから、誰でも参加することができます。

神戸まぼろしの公会堂

 

六甲アイランドにある神戸ゆかりの美術館で、「神戸まぽろしの公会堂コンペ再現!~貴重な設計原図を一堂に~」が開かれています。
神戸は、モダンな街として発展してきましたが、その象徴として、現在の中央区大倉山に公会堂を建設する計画がありました。
市民からの、オペラや演劇などが鑑賞できる施設が欲しい、という要望を受けて神戸市は、戦前に二度、大正と昭和にコンペを開催しました。
ところが、最初の大正期は関東大震災による不況で、二度目の昭和戦前期は、日中戦争や阪神大水害などが相次いで、どちらもその計画は頓挫して、実際はどちらも建てられないまま終わり”まぼろしの公会堂”と呼ばれてきました。
文書館では、これらの実現する事のなかった2度のコンペの設計図を長年にわたり保管してていました。
今回の展覧会で、現存する設計原図を眺めることで、今まで知られることのなかった歴史の一面も垣間見ることができます。手書きの美しい図面から、今でも、こんな公会堂があれば素敵だと思わせるような設計図がたくさんあります。
“まぼろしの公会堂”、絵本のように楽しんでください。

特別展「神戸まぼろしの公会堂」2020 3.8まで
神戸ゆかりの美術館
毎週月曜日、年末年始(12月29日~1月3日)、1月14日(火曜日)、2月25日(火曜日)休館
入場料 一般800円
六甲ライナー「アイランドセンター」下車

布引の滝で”野点”しませんか

 

新神戸駅から山道を約20分ほど登ると、「布引の滝」4つの滝で一番大きな雄滝(おんたき)に着きます。
市街地からこんなにも近い所に、姿の美しい、雄壮な滝の景色に出会えるのは、全国的にも珍しいので、近年は日本各地からのみならず、欧米を中心に世界各地からの観光客が、「神戸の秘境」として訪れています。
さて「神戸布引 野点」として初めて開催されたのは、、2017(平成30)年5月でした。新緑と紅葉の頃に計画されて今回は4回目となります。
堅苦しくてハードルの高い”お茶会”ではなくて、コーヒーを飲むような感じで気軽に参加ができて、なお、茶事に親しんでもらいたい、と有本先生(表千家)が茶席を担当してくたさいます。
雄滝の水の音がBGM、という贅沢さです。
咳払いをしても、お茶碗を何回どちらに回しても、気兼ねをする事なく、登山の服装で参加してくださいね。
まずは、季節のならではの和菓子をいただいてから飲む「お茶」の美味しさ、は格別です。
行きは滝を眺めながら、帰りは、中央区では屈指の紅葉の名所の徳光院を抜けて下山が、おすすめです。
駆け足で過ぎて行く季節を、こんなにも近くで楽しむことができます。

日時:2019年 11月30日(土)一席10:20~
二席11:10~
三席~13:20~
四席~14:10~
(所要時間: 各30分)
場所:おんたき茶屋
※雨天決行
参加費:800円
定員:各席15名(椅子席)
申込み・問合せ:078(241)3484

絵と会話する人 太田治子さん

神奈川県生まれの作家、太田治子さんが神戸に来られたのは、大型台風がやって来るという前の日でした。
HAT神戸にある施設から、翌日は長田の図書館、3日目は六甲山の山懐に、と嵐を縫いながらの講演会も含め、3日間で約220人の方々がお話に耳を傾けられました。
 太田さんは、「湘南幻想美術館」-湘南の名画から紡ぐストーリー-という本を出されたばかりで、この本の中の作品を朗読をされる、という場面もありました。
幼い時から、「泰西名画集」が遊び相手だったという太田さんは、美術番組の草分けで現在も根強い人気の、NHKの「日曜美術館」の初代アシスタントを3年間務められています。
湘南にある美術館の名画から、太田さんが気ままに空想して紡がれたストーリーが収められている美しい本には、「世界の名画のささやく声は、その絵を最も愛する治子さんの耳だけに聞こえる。」という瀬戸内寂聴さんの愛情あふれる言葉が、帯で寄せられています。
一書くことがこんなに楽しくてよいのだろうか。毎回、空想のお話を書きながら、私はその幸福感に包まれていた。
と前書きに書かれています。
神戸滞在最後の日に、須磨浦公園をご案内しました。
「須磨の海」という浅井忠の作品の、描かれた場所に行ってみたい、という太田さんのご希望でした。
目の前に淡路島を望み、畿内の西の端である山並みが鋭く海に落ち込んでいる”絵の中の風景”を、感慨深くいつまでも眺めてられる太田さんには、浅井忠の絵の中に描かれている帆掛け船が見えていたのかもしれません。
私もまた、この太田さんの幸せそうな後ろ姿を、いつまでも眺めていたい、と思いました。

須磨海浜水族園の記録映画「スマスイ」完成

市立須磨海浜水族園を舞台にした自主映画「スマスイ」が、8月上旬に 完成しました。
1957(昭和32)年に「須磨水族館」として開業し、1987(昭和62)年に建て替えられて「須磨海浜水族園」という現在の名称になりましたが、神戸っ子ならみんな大好き「スマスイ」のみならず、西の観光の拠点としても、長い間、市内外を問わず多くの人に親しまれてきました。
しかし、この全面改装からでも、すでに30年がたち、施設の老朽化が目立つようになり、全面改装し4年後に新装オープンすることになりました。
そこで、同園の職員やそれらの人の繋がりで広がった豊富な人脈の方々で、現在の施設の様子を記録として残しておこう、という計画がたてられました。
撮影は、まだ寒い2月から始まりました。
単なる記録ではなく、たくさんの人に愛された水族園だった、と記憶してもらえるような映画になった一園長さんは語られているとおり、水族園を取り巻く様々な世代の人の”人間ドラマ”に仕上がっています。
ちょっと異色な記録映画、とはいえ、やはり阪神・淡路大震災の被害を受けた場面は、目を覆いたくなるような惨状で、飼育員の方々の心中を察すると涙が溢れ、これこそが後世に残すべき悲しみの場面だと思いました。
さて、ユニークな陰の主役は誰でしょう?
これは、見た人にしかわかりません…。

上映は2019年9月1日まで水族園3階の特設シアターで
67分の作品で1日4回上映
観覧無料だが入園料は必要
9月以降は一般の映画館での上映予定
問い合わせは 078-731-7301