思い出の扉が開く時

昨年の末頃、突然、NHKのBSの番組「新日本 風土記」の制作スタッフの方々が相談に来られた。
「神戸 元町」をテーマの番組を制作したいと思っている、ということで、様々な質問やお問い合わせを受けることになった。そもそも元町というのはどこまでなのか、横浜と違う雰囲気なのは何故なのか、どこかに亡命ロシア人などの末裔の人はいないか、元町あたりに、かつて盛えていた外人バーのようなお店はないか等など。
私が神戸市の案内所にお勤めし始めたのは、1979(昭和54)年で、クイーンエリザベス号など豪華客船も次々と入港していたので、とにかく英語は不可欠で、否応なしに、当時はまだ元町駅北側にあったパルモア学院という英語学校に通っていた。その時の友だちが、21時に授業が終わってから外人バーに行こう、と誘ってきた。とんでもないこと、喫茶店ですらまともに一人で入れなかった私、そんな恐ろしげな外人バーなどに行けるか、と坂道を転げるように逃げ帰った。
やがて新聞社の方々から、あるいは周りのいろんな人たちとあちこちのバーに連れて行ってもらうが、相変わらず飲めないままではあるが、雰囲気を楽しめるようにまで成長した。
切り絵作家、成田一徹さんにもあちこち連れていってもらった、贅沢な思い出。
「KOBE HIGH BALL」で出されていた新開地、豆福
さんのカレー豆をポリポリと齧りながら、ああ、こんなことなら、危なげな外人バーにも、行っておけばよかったかなあ、と今ごろ後悔している。そしたら、NHKの番組の人たちにも、したり顔で外人バーを語ることができただろうに

「酒場の絵本」(198211月発行 田中正樹 成田一徹)をめくりながら‥。

ある読書会のこと  「灯をともす言葉」 井戸書店にて

読書会に参加するのは久しぶりのことだった。
神戸外大で指導されていた先生を中心に、資本論から落語まで、様々な
分野の本を取り上げて議論する読者会が、コロナ禍で中断されたままだったので、ドキドキしながらの参加だ。
私にとっては初参加の読書会のことは、このDジャーナルのお知らせ記
事で知って参加してみたいと思った。神戸出身の花森安治さんの「灯をと
もす言葉」(2013年初版)が課題図書とい
うことも背中を押してくれた。
前日にようやく手にした本は、どこからでもあっという間に読めて、そし
て、キャッチコピーのような短いフレーズは、時に詩のようでもあり、ぐ
いぐいと心に刺さってくる。戦後から昭和40年代くらいに書かれた花森さ
んのメッセージは、今でも、今だからこそ響くことも多い。
1948年に「美しい暮しの手帖」(のち「暮しの手帖」には改題)を
創刊。取材執筆から表紙装釘、誌面のデザインまで自ら手がけた。
そのデザインは、シンプルで可愛いのに、おしゃれで今でもその斬新
さに目を見張る。そして何より、広告料をもらわないで、商品のモニター
を行い、読者に洗濯機や掃除機やストーブなど商品についての知識を提供し続け、雑誌の革命児だった「暮しの手帖」は、75年経った今でも色褪せない。

この読書会の場所を提供してくださったのは、板宿の「井戸書店」
の3代目店主、森さん。〝感動伝達人〞としての書店を理念とされてい
て、街中から消えつつある古き良き時代の街の本屋さんとして、いろん
なイベントをされている。
ふらりと立ち寄って、心の底から感動する本に出会えそうな予感のする
本屋さん、私もここで、心に灯りがともった。
井戸書店
2023-11

青山大介さんの 新作鳥瞰図 知られざる制作裏話

2 0 2 3 年、10月15日に鳥瞰図絵師・青山大介さんの講演がありました。
一王山には、十善寺の境内で、早朝に行われているラジオ体操などを通
じ、カミカ茶寮の女将さん、豊永祐子さんを軸に育まれた仲間の方たちの
〝人の輪〞があります。
今回、その熱き思いの方たちから、数ヶ月前に青山さんに依頼されていた、「一王山の鳥瞰図」がついに出来上がりました。
それを記念して、境内の一画で、青山さんのこれまでの、鳥瞰図に出会ってからの人生の軌跡と制作過程が、六甲山の生き字引・前田康男さんの絶妙なリードの元、時にユーモアも交えて語られました。
上からは実際には見えませんが、お寺の周囲の八十八ヶ所の散策路も鳥
の目でくっきりと描かれ、お墓の一つひとつも全て数え、高低差までも
調べて書き込まれています。豊永さんたちの新たな取り組みとしての、「ア
サギマダラの飛来地プロジェクト」のフジバカマも描かれています。
神戸における鳥瞰図の先駆的パイオニアの存在の青山大介さん。周囲の
ファンの方々からは今でも親しみを込めて〝大ちゃん〞と呼ばれている青年は、年齢という年輪を着実に刻み、熟達の域の絵師になっています。
大ちゃんの鳥瞰図は、一王山の案内所のようなカミカ茶寮と元町商店街の「花森書林」(火曜日・水曜日定休)さんなどで一部1500円で販売さ
れています。
青山大介オフィシャルページ

2023-10

一句一献

およそ40年来の友人、門前善康さんが句集を出版されました。
故時実新子さんに師事したのは、1995年の阪神・淡路大震災がきっかけでした。

「冬の雲仮設の窓にチマ・チョゴリ」

と詠んだ句が、公募していた震災に関する多くの作品の中から入選。
以来、本格的に創作を始めた門前さん、既に2冊の句集を出版されてい
て「一句一献」は3冊目になります。今回は、好きなお酒を兼題(テーマ)
に6部構成になっていますが、いつもの、居酒屋さんでの門前さんの
チャーミングな横顔がそこかしこに見え隠れしていて、愉しい17音字の日
常日記になっています。

「ほろ酔いの着ぐるみを着て告白す」
お茶目なだけではありません、地元サンテレビで報道、制作部門を担当され、最前線で修羅場を潜り抜け神戸を代表するメディアの人として生きて来られた門前さん

「戦場も平和の場にも酒は在る」
どこかで、秘めた恋があったのか、なかったのか

「吟醸の恋は一生掛けて飲む」
いつもおしゃれで粋ないで立ちで、バッグから小さな文具に至るまで拘
りの人ですが、それは、大きなイベント、展覧会、音楽会など様々な場面で
も同様に、名プロデューサーとして芸術的なセンスを隅々にまで発揮され
る人でもあります。

「わたくしが私を論破する酒場」
いえいえ周りも論破してますよ、門前さん美しく脆いクリスタルガラス製の
キャタピラー、のような門前さん

「饒舌になるため酒を飲んでいる」
とんでもないです、あなた、いつも饒舌でしょう、スマホ片手に、門前さん。
生き方を重くも軽くも練り込んだ素敵な川柳作品集で、17字を駆使した
小さな宇宙で遊んでみたいなぁ、と思って、私も指を折っています。

2023-5

花森安治「暮らしの手帖」の絵と神戸 おかえりなさい花森さん

今、神戸ゆかりの美術館(六甲アイランド)で「花森安治『暮らしの手帖』の絵と神戸」が開かれています。
初代編集長で、イラストレーターとして装丁もしていた花森安治さん(1911~1978)は、神戸(現在の須磨区生まれ)の出身ですが、案外知らない人の方が多いかもしれません。
特に、今回は、その驚くべき多才な仕事ぶりと共に、故郷・神戸への思いを取り上げているコーナーもあり、その原稿に思わず読みいってしまいました。
「暮らしの手帖」(当初は「美しい暮らしの手帖」)は1948(昭和24)年に、豊かで賢い暮らしを提案する”生活総合誌”として創刊されました。その時代には、まだ当たり前ではなかった冷蔵庫、洗濯機などの家電や日用品などの「商品テスト」が目玉の企画もあり、企業広告を一切載せずに斟酌(しんしゃく)や忖託(そんたく)などなしに、客観的で中立な批評がされていました。
花森が30年間担当して描いた表紙絵の、現存する原画153点の中から、今回は36点が出展されています。パステル、水彩やクレヨンなどの画材で描写された作品は、多様でこのまま絵本の表紙になるような愉しさです。因みに、クレヨンとクレパスの商品テストの記事も展示されていて、自分が幼い時につかっていたのはどれかなと、興味深く見ました。
国内各地を取材した連載「日本紀行」第一回(1963年)は、神戸が取り上げられています。
「明るくて、ハイカラで、すこしばかりおっちょこちょいで、底抜け楽天的で、それでいて必死に生きている」町、と神戸のことを書いています。
「暮らしを軽蔑する人間は、そのことだけで、軽蔑に値する」という花森の言葉どおり、「暮らしの手帖」は、名もない人たちのありのままの暮らしを記録し続けた雑誌でした。
しかし、それは、花森安治という伝説の編集者の高い美意識に裏付けされたものであった、ということを再認識させてくれる展覧会になっています。
3月14日まで月曜日休館◯078(858)15

2020/02/26号

虹の石 ~後藤比奈夫さんのこと~

 

2020年6月5日に、俳人 後藤比奈夫さんが亡くなられました。1917(大正6)年生まれですから、103歳でした。
私が高校生の時に、現代国語の教科書で習ったことのある人でした。その俳句の世界では有名な重鎮の後藤比奈夫さんとの、間接的な出会いの始まりは、今から25年あまり前のことです。
風の強い寒い日に、老夫婦が案内所に来られ、「後藤先生の虹の石の句碑は、何処にありますか?」と尋ねられました。
その時、恥ずかしいことに、私はその存在を知らなくて、調べるのにしばらく待って頂きました。
そして、ようやく東遊園地の南東あたりにあることがわかりました。
しかし、他所から来られ、この辺りに詳しくない人が行くのはたいへんだろうと、ご一緒することにしました。

「虹の足とは ふ確に美しき 比奈夫」
と刻まれた句碑は、大きな手水(ちょうず)鉢のような彫刻作品でした。

 

句碑~虹の石~(彫刻作品)。
文学とアートのコラボレーション
造形作家 河口龍夫氏作
(神戸出身)

この句碑は、ご自身の目で確かめて、感じて頂くのが一番。東遊園地の東、フラワーロードにあります。

神戸出身の有名な造形作家、河口龍夫氏による作品で、くり貫かれた黒御影石の、底に俳句が彫られていています。
後藤比奈夫さんの俳句は、水面越しにゆらゆらと見えています。
でも、時には、空や、落ち葉や近くの大きなくすの木などが映っていますから、意識しないで歩いていると、うっかり通り過ぎてしまうこともあります。
お二人は、その美しい句碑との出会いを、とても喜んで帰られました。
後藤比奈夫さんの主宰されていた俳句の会に、徳島から参加されて、
帰路、一目「虹の石」を見ておきたかった、ということが、後に頂いた葉書でわかりました。
その後、ご縁があって、後藤比奈夫さんのお孫さんにあたる
和田華凜さんと出会い、少し俳句を習う機会もありました。
句碑で、これほど素敵な句碑は他にはないように思われて、私は今でも、あの日に偶然訪ねて来られた老夫婦に感謝の気持ちでいっぱいです。

クリスマスローズ そんなに 俯くな

六甲山にも それなりの 登山地図

集団で してゐる主張 吾亦紅(われもこう)

アネモネの 好きな彼女を 思い出す

など、4年前の後藤比奈夫句集「白寿」から、ワクワクとドキドキの作品を選んでみました。

「神戸史話」から ~”黒い死”ペスト~

世界中でコロナと闘っているような毎日。
「神戸市総合インフォメーションセンター」もついに臨時休館になり、粛々と資料整理はしながら半分は在宅勤務の指令です。
テレビ体操で身体を整え、暫く目の行き届かなかった庭の片隅で、ひっそりと咲いていたシランやクジャク草やラベンダーに感動しています。そして、普段読めなかった本と向き合っています。
4月1日に亡くなられた、文芸評論家であり、郷土の作家の発掘にも尽力された宮崎修二朗さんから頂いた「神戸史話」の中から、今の状況と合わせて興味深く引き込まれた「”黒い死”ペスト」の章を抜き書きしたいと思います。

一ネズミを見たらペストと思え一。
明治三十二年十一月、神戸市民はネズミを目のかたきにし  て追いかけた。ネズミはおそるべきペスト禍をまき散らす凶悪犯だった。
その年十一月八日夜、市内葺合区浜辺通五丁目、網干屋藤井重三郎所有の米倉で働いていた店員、山本幸一(十三歳)が、突然高熱を発し二日後、衰弱して死んだ。つづいて同区内の五人が急死。いずれも症状は同じだ。しかし、それがペストと呼ばれる恐ろしい伝染病によるものとは、だれも気がつかなかった。
山本少年の死体解剖で、真性ペストとわかってから、神戸市民は”黒い恐怖”にちぢみ上がった。県知事は十一月十七日、県報号外で予防を告示。神戸港和田岬の海港検疫所で出入船舶の検疫を強化、乗降客の臨時検疫を行なった。汽車の乗客にたいしても三ノ宮、神戸、兵庫の各停車場に防疫班を出張させて検疫。
……
犠牲者とひろがった。葺合区を中心に、……元町、栄町など十一月中の患者二十二人。うち九人が死に、新聞は連日「黒死病」を報じた。
皮肉なものである。日本最大の貿易港にのし上がり、流行の窓口だった神戸が日本で初めてペストの侵入を許した。コレラは明治十年以来、幾たびかの大流行を体験ずみである。だから、前年コロンボ、シンガポールなどにペストの流行を伝えられたときから。水ぎわ作戦に徹底を期した。同年五月、米船ペルー号が神戸へ入港、船内でペストが発見されると、完璧な足どめ作戦で”撃退”に成功してひと息ついた矢先だった。
……
神戸全市に非常事態宣言が発せられ?「ネズミ一匹五銭で買い上げます」のようなビラ五万枚が配られた。同時に、菌が足につくというので”はだし禁止令”が出され、古タビを集めて半強制的にはかせられた。
……
そうしているうちにも、ペストは大阪阿部野橋へひろがり、十二月には岐阜、沼津と東斬。

カミュの「ペスト」よりも、はるかに真実味のある正確な歴史の記録です。
「神戸史話」編集 落合重信 有井基
昭和四十二年発行

ペスト騒動のその後、昭和四十二年には内務省から”飼いネコ奨励”の通達が書く府県に出されています。
これは、120年ほど前、日本で最初にペストが上陸した神戸での様子です。慌てた当局の対策がネズミ退治で”ネズミ成金”も出た、というまさしく悲喜劇が、つぶさに記されていました。
カミュの「ペスト」(1947年発表、ペストが蔓延して閉鎖された都市の人間模様が描かれている)とあわせて読んでみると一層興味深いです。

絵と会話する人 太田治子さん

神奈川県生まれの作家、太田治子さんが神戸に来られたのは、大型台風がやって来るという前の日でした。
HAT神戸にある施設から、翌日は長田の図書館、3日目は六甲山の山懐に、と嵐を縫いながらの講演会も含め、3日間で約220人の方々がお話に耳を傾けられました。
 太田さんは、「湘南幻想美術館」-湘南の名画から紡ぐストーリー-という本を出されたばかりで、この本の中の作品を朗読をされる、という場面もありました。
幼い時から、「泰西名画集」が遊び相手だったという太田さんは、美術番組の草分けで現在も根強い人気の、NHKの「日曜美術館」の初代アシスタントを3年間務められています。
湘南にある美術館の名画から、太田さんが気ままに空想して紡がれたストーリーが収められている美しい本には、「世界の名画のささやく声は、その絵を最も愛する治子さんの耳だけに聞こえる。」という瀬戸内寂聴さんの愛情あふれる言葉が、帯で寄せられています。
一書くことがこんなに楽しくてよいのだろうか。毎回、空想のお話を書きながら、私はその幸福感に包まれていた。
と前書きに書かれています。
神戸滞在最後の日に、須磨浦公園をご案内しました。
「須磨の海」という浅井忠の作品の、描かれた場所に行ってみたい、という太田さんのご希望でした。
目の前に淡路島を望み、畿内の西の端である山並みが鋭く海に落ち込んでいる”絵の中の風景”を、感慨深くいつまでも眺めてられる太田さんには、浅井忠の絵の中に描かれている帆掛け船が見えていたのかもしれません。
私もまた、この太田さんの幸せそうな後ろ姿を、いつまでも眺めていたい、と思いました。

田辺聖子さんの事

1964(昭和39)年「感傷旅行」で芥川賞を受けられ、2000年には文化勲章を受賞された田辺聖子さんが、2019年、6月6日に91歳で亡くなりました。
田辺さんは昭和3年に大阪の福島にあった写真館の長女として生まれました。1945(昭和20)年6月の大阪大空襲で自宅が
焼失、19歳から金物問屋さんに勤めて家計を助けました。
傍ら27歳のとき、学生や社会人、主婦など幅広い人たちが小説や詩やエッセイを学ぶ大阪文学学校へ通い始めています。
実は私も、1994年から、三宮の案内所の勤務を終えてから、大阪文学学校の詩、エッセイのクラスに数年間通って、書くことの勉強をしました。日本で一番古い、働く人のための文学修行の場であるということと、この学校から田辺聖子さんという偉大な作家が生まれた、ということが、学校を選ぶときの大きな動機になっていたことを、今でも思い出します。
田辺さんの当時の担当講師(文学学校ではチューターといいます)が、毎週一回の、生徒の作品を持ち寄りお互いに合評をする授業にも100枚近くの作品をエネルギッシュに提出されていた、と言われていますので、どれ程の体力と気力で書かれていたか私には容易に想像できました。
1966(昭和41)年、神戸市兵庫区荒田町の開業医川野純夫さん(2002年死去)と結婚して、いきなり四人の子どもを持つことになりましたが、婚姻届けを出さず事実婚を通されていたとの事を知り、時代の先取りをされていた生きざまも知り驚きました。
「深いことを軽く、やさしく、面白く」が書く時の姿勢で、
軽妙な文章に加えて、人間への眼差しのやさしさを貫かれていたことは、「新源氏物語」を再読してみてもよくわかりました。
神戸市内の病院で亡くなられたその翌日、お身内でのお別れ会をされる所に、私も偶然行き合わせる事になりました。
大阪文学学校への入学から、田辺聖子さんに導いてもらったことも、また、最後、田辺聖子さんが眺められていたであろう同じ神戸の街の景色の中に、自分がいたことが不思議でなりません。
「時代の精神を歌う中島みゆきと、時代のライフスタイルを歌うユーミンを足したような人」が田辺聖子さんだと、いつもは辛口のライターさんが書いていたコラムに、深く頷きました。

 ー空から比較ー

神戸港開港150年目を記念して作成された絵図が、現在、神戸市役所1号館24階展望ロビーに展示されています。
開港当時と現在の神戸の絵図を描いたのは、鳥瞰図絵師の青山大介さんです。
昨年の春から約9ヶ月をかけて作成された鳥瞰図です。
「昔」には、生田川が流れ、生田神社には参拝している人たちがいて、まだまだ建設途上の居留地の様子がよくわかります。
また、港内には、イギリス、アメリカ、フランスなど18隻の外国艦船が停泊していて、それぞれの国旗やスクリュー船か外輪船かの区別からマストの数まで、資料に基づき丹念に描き分けてあります。
「今」の絵図には、完成が予定されているビルや施設、入港する予定の客船なども盛り込まれています。
そして、中には、西国街道に潜んでいた追いはぎなど、作者だけの遊び心がたっぷりの隠し絵もちりばめられています。
青山さん自身が大震災を経験したのは18歳の時でした。
あえなく壊れ、なくなった街に対する思いは人一倍です。自分の絵図で、故郷神戸の復興を描き残しておきたい、そのことで街に恩返しをしたい、と気の遠くなるような精緻な鳥瞰図を描いています。
青山さんの作品を前に、150年の歳月の歩みに思いを馳せてみてください。

Dジャーナル2017-6-23号では青山大介さんの鳥瞰図を使い次のような紙面を制作しました。