一句一献

およそ40年来の友人、門前善康さんが句集を出版されました。
故時実新子さんに師事したのは、1995年の阪神・淡路大震災がきっかけでした。

「冬の雲仮設の窓にチマ・チョゴリ」

と詠んだ句が、公募していた震災に関する多くの作品の中から入選。
以来、本格的に創作を始めた門前さん、既に2冊の句集を出版されてい
て「一句一献」は3冊目になります。今回は、好きなお酒を兼題(テーマ)
に6部構成になっていますが、いつもの、居酒屋さんでの門前さんの
チャーミングな横顔がそこかしこに見え隠れしていて、愉しい17音字の日
常日記になっています。

「ほろ酔いの着ぐるみを着て告白す」
お茶目なだけではありません、地元サンテレビで報道、制作部門を担当され、最前線で修羅場を潜り抜け神戸を代表するメディアの人として生きて来られた門前さん

「戦場も平和の場にも酒は在る」
どこかで、秘めた恋があったのか、なかったのか

「吟醸の恋は一生掛けて飲む」
いつもおしゃれで粋ないで立ちで、バッグから小さな文具に至るまで拘
りの人ですが、それは、大きなイベント、展覧会、音楽会など様々な場面で
も同様に、名プロデューサーとして芸術的なセンスを隅々にまで発揮され
る人でもあります。

「わたくしが私を論破する酒場」
いえいえ周りも論破してますよ、門前さん美しく脆いクリスタルガラス製の
キャタピラー、のような門前さん

「饒舌になるため酒を飲んでいる」
とんでもないです、あなた、いつも饒舌でしょう、スマホ片手に、門前さん。
生き方を重くも軽くも練り込んだ素敵な川柳作品集で、17字を駆使した
小さな宇宙で遊んでみたいなぁ、と思って、私も指を折っています。

2023-5

「イペ」の花が 咲きだしましたよ

鯉川筋沿いに、イペの花が咲きました。大丸北側スクランブル交差点、
モクレンとコブシの花が終わり、しばらくは花のない時期なのに、いつも
より早く開花したイペの鮮やかな黄色の花にカメラを向けている人がたく
さんいます。
イペはブラジルの国花で、2008年にブラジル移住100周年を記念して、鯉川筋に沿った7ヶ所に植樹されました。
1908(明治41)年「笠戸丸」の出港から1971(昭和46)年の「ぶら
じる丸」の最後の出港まで63年間、ブラジル移民船が神戸港から出ていました。鯉川筋の突き当たりにあった「神戸移住センター(現在は「海外移住と文化の交流センター」)から、鯉川筋を通り船に乗り込み新天地ブラジルに移住した人は
約25万人と言われています。その中でどれほどの人が再び故郷の地に戻っ
てこられたのか…。それを思うと、毎年この鮮やかな黄色のイペの木を眺
める度に心の奥が揺れ動きます。移民関連の施設として日本で唯一残って
いるのが「海外移住と文化の交流センター」です。
移民する人たちが希望と不安を抱いて最後に過ごした場所、ここから移
民坂を下り港まで、イペの木に誘われながら港まで歩いてみてください。

真珠会館がひと休み

旧居留地の南東の端に、「日本真珠会館」はあります。街歩きのガイ
ドの時に前までご案内しても、これが有名な真珠会館だと気がつく人はほ
とんどいません。外から見るだけでは、その良さが分かりにくいのかもし
れません。残念なことに、今年2023年の3月末で閉鎖されることになり
ました。真珠会館は、1952(昭和27)年に兵庫県などか中心になり、
検査や取引の拠点として建てられました。県営繕課の建築家、光安泰義氏
の設計でモダニズム建築として評価され、国の登録有形文化財にも認定さ
れています。
過日、内部の隅々まで最後の見納めをしてきました。昭和天皇が来られ
た時に乗られたという手動のエレベーターは、すでにありませんが、壁面
のスイッチもモダンな椅子も、天井の和洋折衷のデザインも71年間大事に
使われてきました。
私が一番感動したのは、自然採光で真珠の選定をするために、建物は、
六甲山の緑を通した光を取り込むための向きに建てられ、窓ガラスも光をその
まま取り込むために当時としても高価な素材にこだわっています。
黄金比率で計算されていて上りやすい階段、モダンなデザインの照明器
具、トイレのすりガラスの可愛さ、時代の先取りさながらの中庭、玄関
ポーチの緩やかなカープ、窓の面格子のほんのわずかのカーブなど、光安さんの小さな可愛らしい遊び心のデザインに、いつも胸がキュンとなります。
71年前に生まれた、単に神戸ではなく「日本真珠会館」。ただただ、じっと居留地の隅で佇んでいたのではなく、「真珠の街神戸」の顔として大事な建物でした。
今後の具体的な計画は決まっていないそうです。私は、この建物が積み
重ねてきた輝かしい記憶を心に刻みながら、なお語り継いでいきたいと
思っています。

2023-3

三宮神社 〜梅をもとめて〜

どこかに隠れていそうな小さな春の気配を、探してみたくなりました。
この季節ならば梅を見たい、と思ってお買い物や用事のついでに、ふらりと寄
ることができる「三宮神社」を訪れてみました。
紅梅がこれからどんどん咲いていこう、というよい感じで咲いていました。白
梅も出番を待っているところ、ロウバイもあって、車がどんどん行き交うこのよ
うな繁華街のまん中に、コンパクトに〝小さな春〞がありました。
三宮神社は、生田神社の裔神八社のうちの3柱目にあたる由緒ある神社なので、
昨今のブームで御朱印を授かりにくる若い人たちも増えています。
また、この地は、「神戸事件」の起きたところです。

1868(慶応4年)1月11日、現在の暦だと2月4日にあたる日、備前藩の隊
列約500人が、明治政府の命令により防備のため西宮へ向かう途上でした。午
後2時くらいに三宮神社辺りにさしかかった時、外国軍艦の水兵(フランス人かイギリス人)が隊列を横切ったことに端を発した事件です。
ちょうど神戸の開港の最中、居留地は造成中で、数ヵ国の外国人がいました。切
りつけられた外国人たちが黙っているわけはなく、あわや戦争という事態までい
きかけましたが、滝善三郎の切腹によりなんとか収まりました。
これより数年前にも、同様の「生麦事件」が横浜で起きましたが、こちらは薩
摩藩と戦争状態にまでなっています。
それに比べ、「神戸事件」は、備前藩第三砲兵隊長の滝善三郎ひとりに責任を押
し付けた形で終息に至りました。政治体制がまだ確立していなかった中、明治政
府として初めて関わった外交問題が「神戸事件」でした。
事件が起きたときは、旧暦では、まだ寒い頃でしたから、梅は固い蕾だったと
思われます。
「三宮」という地名の元にもなった「三宮神社」の歴史、不本意ながらだった
のか、あるいは、武士としての本懐だったのか、滝善三郎の気持ちを推し量りな
がら、しばし神社に足をとめてみてください。
2023-2

 神戸家具のこと

元町商店街で、ちょっとひと休みしたい時に、いつもその空間が浮かぶ喫茶店が、一番街の「あじさい喫茶」です。階段を上ると、そこはひと昔前の、なんとも言えない手触りの良い空間が広がっています。「神戸家具」で店内の椅子やテーブルが設えられているから、でしょうか。
そこで、今回は、「神戸家具」のことを調べてみました。
開港と共に、居留地などで外国人が住んだり仕事をするようになると、その暮らしに合わせて家具や装飾品などが持ち込まれてきました。祖父母の代から受け継いだ家具を長く愛用するのが当たり前のこと。やがて、それらの補修などを頼まれ、彼らの使っている西洋家具を参考にしながら、見よう見まねで応じたのが、神戸の船大工さんや家具職人さんでした。
西洋家具の発祥は、神戸と横浜と言われてますが、開港されていた他市と比べ、今日まで「神戸家具」として確立されているのも、神戸ならではです。

 いずれも単に西洋の模倣にとどまらず、落ち着いたヨーロッパ的なデザインをベースにしながらも、そこには日本の職人さんの丁寧な技が随所に駆使されています。それは、風見鶏の館とか外国人墓地の石碑などにも、その職人さんたちの技が活かされているのと同様です。
明治5年創業の「永田良介商店」は今日までその流れを汲んで神戸家具の王さまとして営業されています。
元町商店街の「田村家具」さんは昭和22年に道具屋として創業し、元町商店街に移転してから神戸家具を扱い始めた、ということです。3代目田村嘉久さんは、木が一番好きだと、言われます。材木として使える木になるまでに60年以上かかり、切り出されてから製材されて家具になるまでにさらに10年。せめてそれ以上の年月をかけて家具と人生を共にしてほしい、と田村さんは語られてます。
元町商店街五丁目、田村家具で、神戸らしいお洒落な、それでいて優しくて暖かな家具たちの、静かな息づかいに耳をそばだててみてください。
2022-11

いいね乙仲通り その2

先月号に引き続き、さらに奥深い乙仲通りをご案内したいと思います。
南京町を抜け南側のでは広い道路が栄町通りです。開港後1872(明治4)年に、この地が栄えますように、と名付けられたとり、1909(明治42)年に市電が走り始めると、たちまち経済の中心地になり「東洋のウォール街」と呼ばれるほど賑わいました。
その栄町通りと国道2号とに挟まれた東西約1㎞の通りが乙仲通りです。聞きなれない「乙仲」は税関で貨物を扱う事業者の略称です。が、この職種も戦後廃止されたにも関わらず、今だに「乙仲」が俗称として受け継がれています。
さて、ちゃんとしたランチがしたい時には、1912(大正元)年創業の「喜八」さんで、と教えてくれたのは、元町商店街の老舗の女将さんでした。
食後、デザートを食べたくて乙仲通りの数件西の「yellow」に行きました。こちらは昨2021(令和3)4月にできたばかりのジェラート屋さんです。以前は何のお店だったのか…。清潔でシンプルな店構え、ジェラートやソフトクリームの美味しさにたちまち虜になりました。キラキラした眼差しと嫌みのない対応の店員さんに、この美味しさの秘密を、聞いてみると、自社養鶏場でとれた卵を使っている、とのことです。合点がいきました。それから、私は毎週金曜日に届けられたばかり新鮮な卵を買いに行き、濃厚なたまごの卵黄のみのソフトクリームを食べるのが、週末の一番の楽しみになってます。
2009年にようやく愛称として認められて以来、この乙仲通は、ほどよく開発されていたり、そのまま残されていたり、の絶妙なバランスの良い界隈として進化しています。
大正レトロなお店と、また、まるでうみたて玉子のような顔をしたお店との共存が、心地い「やっぱり、いいね!」の乙仲通りです。

いいね!乙仲通り

 気になっていたことが整頓できて、やれやれ自分にご褒美がしたい、と思った週末。私の足は、やはり自然に乙仲通りに向きます。
 元町商店街から南京町を抜けると、さらに南側に平行して「栄町通」があります。開港後の1872(明治4)年に、この地が栄えますように、という願いの元に名付けられた栄町です。1909(明治43)年に市電が走り始めると、銀行や証券会社が軒を連ね経済の中心地になり「東洋のウォール街」と呼ばれるほど栄えました。
 その栄町通と国道2号とに挟まれた東西約1㎞の通りが「乙仲通」です。栄町通りと共に貿易会社や港湾運送業者などで賑わっていたようてす。聞きなれない「乙仲」は税関で貨物を扱う事業者の略称で、この法律で定められた職種も戦後廃止されましたが、今でも乙仲が俗称として受け継がれているところが、この界隈の面白さの原点かもしれません。
 さて、お昼時分はとっくに過ぎていて、どのお店もお目当てのランチは終わっていて、でも何かちゃんとした食事がしたい時に「喜八」さんの暖簾をくぐります。1912(大正元)年4月1日創業で現在4代目。栄町から乙仲辺りの栄枯盛衰を見続けている貴重な生き証人と思わせる設えの店内、映画のセットのようです。
 昼頃から夕方くらいまでの営業、日替わり料理がお重箱で出てきます。奇をてらうこともなく、どれもこれも手抜きのない品々、仕出し、か小料理屋さんで食べている感じで贅沢な900円です。
2022-09-30

みんなの集まる所 〜一王山登山会〜

六甲山系の東西に長い山懐には、11の山筋と、それぞれに毎朝登山を日課にしている登山会があります。7つの支部があるヒヨコ登山会(大正11年の創立)その他に、単独で毎朝登山を行っている登山会もあります。
因みに私は、職場に近くイベントなどに参加しやすいので、ヒヨコ登山会の布引支部に入っていますが、日頃から仲の良い人に誘われて、一王山登山会(戦後復活してから創立75年)の早朝ラジオ体操に時々参加しています。自宅から電車と始発のバスに乗り継ぎ約1時間、一王山と言っても市内屈指の低山ですので、臨済宗の古刹十善寺の境内に早朝散歩、市内で最も楽なアクセスといえます。
早朝にも関わらずご近所の方々、90歳を悠に越されている人から3歳の子どもたちなど、毎日境内いっぱいの40人以上の人が、詩吟や体操、モーニングしながら囲碁や雑談で朝のひとときを楽しんでられます。
境内にある「カミカ茶寮」は、まさしく、ここに集う人たちのオアシス的な存在です。創意工夫の効いた美しいトースト、それをお手伝いして運んでくれるのは、ご近所の小学生姉妹、そして何より豊永女将さん(かなり美人です)のひと愛。かつては、どこにでもあった昭和の風景が、しっかりと残っています。お節介でひとのお世話をを厭わない人たち、みんなで何かをすることの好きな人たち、子どもをあたたかに見守っている人たちの集う所、一王山。
今春、北上の時に寄ってくれた一王山に「旅する蝶」、アサギマダラが列島を南下する時も再びやってくるように、と富永さん、好物のフジバカマを生育中です。
2022-8-26

喫茶あじさい 〜こんな隠れ家あったのね~

なんて居心地の良い空間なのだろう、と室内をぐるりと見まわしたくなるお店。
そこは、元町商店街の隠れ家的な喫茶店「あじさい」です。商店街に面した大きな時計屋さんの2階にあって、狭い階段をトントンと上がらなければならないので、誰でも目につくお店ではありません。
テーブルも椅子も、間仕切りなどの設えまで、一目で神戸家具かな、思われるもの。
美術館かと思われる立派な銅像、ガレの作品かと見とれてしまう美しい花瓶など、上質なアンティークのお店と勘違いしてしまうほどです。
元町散策をしていて、ほっとひと息したい時、少しお腹がすいている時、一人で本を読んでいたい時、雨の日に外の景色を、、眺めながらぼおっとしたい時、などには自然に足が向きます。
このお店は、リンゴのチョコレート「ポームダムール」で有名な「一番館」がしている直営の喫茶店で、半世紀以上も前から、神戸っこが静かに大事にしている御用達のお店です。
パスタのゆがき具合も柔らかすぎず、あんみつの添え物的な果物もおざなりではなく、甘過ぎないチョコレートドリンクにも驚きですが、私の、今の一番のお気に入りは、氷ミルクコーヒーです。
よい家具に身を置いて、鈴蘭灯を上から眺め、しばし一人の時間を楽しむことのできる稀有な空間です。
過度に丁寧過ぎないベテランの店員さんたちも、もしかしたら、神戸流かな…。
どこにも手抜きのない”高級茶房”はよく見ると、壁紙までが芸術的でした。

2022-8

御影公会堂と御影公会堂食堂

さくらの花がいつまで持つだろう、風で散らないだろうかと気になっていた日々が過ぎ、心穏やかに過ごせる頃になりました。
歴史的な建物だけでなく、同様に歴史を刻んだ美味しい味にも出会える所が御影公会堂です
公会堂は、1933(昭和8)年、白鶴酒造七代目嘉納治兵衛氏の篤志により石屋川のほとりに建てられました。
会議やイベント、結婚式にも(昭和58年まで)場を提供し、市民のための拠点としての役割を果たしてきました。
六甲山を背景に、独特の美しいスクラッチタイルで覆われた壁面が、周囲の景色に溶け込み馴染んでいます。石屋川と国道2号の角にあるので、屋上の塔と共に記憶に残る建物です。
設計は、清水栄二で、現存する「神戸市立生糸検査所」、「市立魚崎小学校」、「甲南漬資料館」など多くの建物の設計で知られています。そして、耐震性を重視したということの証で、これまでの90年間、阪神大水害や太平洋戦争、大震災などに遭いながらも、決定的なダメージを負うことなく生き残ってきた、ということも驚きです。
さて、「御影公会堂食堂」は、御影公会堂の地下にあります。設計された当時のままのレトロながらモダンで、地下といいながら、適度に柔らかな光が差し込むすてきな空間です。大阪ホテル(現在のリーガロイヤルホテル)で修行され、披露宴の料理も手掛けノウハウを持っていたのが鈴木貞さん、この経歴から、公会堂の食堂に抜擢されたとのこと。二代目鈴木利裕さん、そして鈴木眞紀子さんがしっかりと命懸けで守られてきた場所と味を引き継がれています。二代目のお父様の背中を見ながら、レシピではなく体と舌で味を覚えてデミグラスソースも引き継がれています。
神戸の洋食に誇りを持っている”神戸っこ”にとって、何か大事な場面に家族みんなで一緒に来たところ、ここで結婚式を挙げられた人がお孫さんを連れて来るところ、が「御影公会堂食堂」です。

2022-4