ホタルと布引茶屋

こんな頃になると、もう、ホタルは現れたかなあ、と気になる。
布引の滝から、さらに奥へ、樹々の良い香りと木漏れ日を浴びながら心地の良い山道を進むと、紅葉の茶屋がある。ハイカーにとっては、喉を潤したい時も、不意に困り事が起きた時にもオアシス的な存在でもある。さらに、ここの悦子女将さんの、笑顔と絶妙なお話しの合間に魔法のように作ってくれるすき焼きが
名物で、遠来の大事なお客様をどうもてなしたら良いか、など頭を悩ます
時、〝最後の一手〞になる。
さて、その悦子女将さんから、「ここ数日カジカの鳴き声がきこえています。ふと、もしや…と思い庭に出てみますと、いました!今年初めての対面、ホタルが舞っていました。」とホタル便りがきました。悦子さんがひとりで、川の木々の合間に、ふうわり、ふうわりと心もとなげに飛んでいるホタルを、愛でられている様子が目に浮かび、この贅沢な桃源郷での暮らしの、美しい景色を垣間見た思いがした。
大学でほたるの育成に取り組んでいたり、大きなホテルでイベントとして放し飼いにしたりしたことが話題になっても、少しも心が動かない。
私が小さい頃の夏の夜は、青緑色の少しカビくさい蚊帳の中で、親子でお布団を並べて寝ていた。どこからか迷い込んできたホタル、気になりながらいつのまにか寝てしまっている。母の柔らかくてひんやり冷たい二の腕を触りながら……。
雨が降りそうな前日の夜更けに真っ暗なテラスで、密やかなホタルの明滅をひとりで眺めている悦子さんの姿は、私の初夏の夜の思い出まで呼び起こしてくれた。
2023-6

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