1964(昭和39)年「感傷旅行」で芥川賞を受けられ、2000年には文化勲章を受賞された田辺聖子さんが、2019年、6月6日に91歳で亡くなりました。
田辺さんは昭和3年に大阪の福島にあった写真館の長女として生まれました。1945(昭和20)年6月の大阪大空襲で自宅が
焼失、19歳から金物問屋さんに勤めて家計を助けました。
傍ら27歳のとき、学生や社会人、主婦など幅広い人たちが小説や詩やエッセイを学ぶ大阪文学学校へ通い始めています。
実は私も、1994年から、三宮の案内所の勤務を終えてから、大阪文学学校の詩、エッセイのクラスに数年間通って、書くことの勉強をしました。日本で一番古い、働く人のための文学修行の場であるということと、この学校から田辺聖子さんという偉大な作家が生まれた、ということが、学校を選ぶときの大きな動機になっていたことを、今でも思い出します。
田辺さんの当時の担当講師(文学学校ではチューターといいます)が、毎週一回の、生徒の作品を持ち寄りお互いに合評をする授業にも100枚近くの作品をエネルギッシュに提出されていた、と言われていますので、どれ程の体力と気力で書かれていたか私には容易に想像できました。
1966(昭和41)年、神戸市兵庫区荒田町の開業医川野純夫さん(2002年死去)と結婚して、いきなり四人の子どもを持つことになりましたが、婚姻届けを出さず事実婚を通されていたとの事を知り、時代の先取りをされていた生きざまも知り驚きました。
「深いことを軽く、やさしく、面白く」が書く時の姿勢で、
軽妙な文章に加えて、人間への眼差しのやさしさを貫かれていたことは、「新源氏物語」を再読してみてもよくわかりました。
神戸市内の病院で亡くなられたその翌日、お身内でのお別れ会をされる所に、私も偶然行き合わせる事になりました。
大阪文学学校への入学から、田辺聖子さんに導いてもらったことも、また、最後、田辺聖子さんが眺められていたであろう同じ神戸の街の景色の中に、自分がいたことが不思議でなりません。
「時代の精神を歌う中島みゆきと、時代のライフスタイルを歌うユーミンを足したような人」が田辺聖子さんだと、いつもは辛口のライターさんが書いていたコラムに、深く頷きました。
お母様の勝代さんが99歳の白寿を迎えたとき、聖子さんから記念の時計をいただきました。銀座和光の小さな置き時計です。裏に「白寿 田辺勝代」と金色で書かれています。残念ながら我が家のわんこが少しかじってしまいましたが今もリビングに飾っています。聖子さんから結婚記念にいただいた著書(料理本)と並ぶ我が屋の宝物です。
残念ながら聖子さんはお母様の年齢に到達する前に亡くなられました。本当に残念です。どうも膵臓は田辺家の方々には鬼門のようですね。
縁あって私は聖子さんのおば(田辺写真館の長女)の孫と結婚しました。
かもかのおっちゃんの診療所のそばで勤務したことがありましたが、まさか東京で出会った女性が神戸に、それも聖子さんと縁のある女性だったとは思いもよらぬことでした。
聖子さんご夫婦とは徳島の阿波踊りの会場でお会いしました。桟敷席で踊りを見物している聖子さんを見かけた(聖子さんの作品に写真入りで登場している)義父が「おい聖子」と大声で呼ぶと聖子さんが振り向き、久しぶりの再会を楽しんでいました。その頃ご主人は杖をついており、若い男性が介助していました。
以上、昭和62年の夏の想い出でした。