子どもといかに向き合ったらよいのか/灘中学校教頭 大森秀治 氏

子どもができた瞬間から、親は子どもにたっぷりの愛情を注ぎます。ことばを教え、さまざまな経験をさせ、豊かな感情を育み、ひとりの「人間」を作り上げるのです。その間、子どもは親に頼り切り、親はこのいたいけなものを、自分よりも大切な存在として慈しみます。ところが、子どもが大きくなるにつれて、あれほど素直に親の言うことを聞いていた子どもが、親の言うことを聞かなくなります。でも、それは子どもの我が儘でしょうか。親が子どもは自分の言うことをいつまでも聞くものと思っていないでしょうか。子どもの躾に関しては、親が責任を持つべきですし、子どもが比較的大きくなっても信念に従って口やかましく言うべきことは言わなければならないと思います。しかし、親の期待や希望は、躾ではありません。子どもは、親の希望を実現する道具ではありません。子どもが、自分の希望どおりにならないからといって、子どもを非難することの方が、親の我が儘です。子どもに自分の夢を託すのは、一概に間違いではありませんが、子どもが自分の意志でそれを自分の夢にした場合に限ります。子どもが夢を持って、こうしたい、ああしたい、こうなりたい、ああなりたいと言ったときに、親の現実感覚や希望に反していても、その夢をつぶしたり、非難したりする権利は親にもないと思います。子どもが持つ夢のもとをたどれば、大概そのきっかけは親が与えた場合がほとんどです。親は、自分の価値観に従って、優先順位をつけがちです。例えば、野球やサッカーをするより勉強する方が、優先順位が高かったりします。Jリーガーやプロ野球選手を夢見るより、いい大学に行く方が現実的だというわけです。とは言え、夢を持つこと自体、夢中になれる対象を持てること自体はとても素晴らしいことです。気宇壮大な夢は破れるかもしれませんが、子どもはそこからも学ぶのです。安全志向で、夢を持てない小さな器より、大きな夢を見ることができる資質を喜ぶべきです。親の出番は、子どもが夢破れた時に、自分の先見性を誇ることではなく、子どもを労ると共に、夢に向かって挑戦した姿勢を称えることです。子どもが夢潰えたときこそ、親の出番であり、親の値打ちが分かる時なのです。

子どもの夢を子どもと共に追いかけ、自分の夢にすることも悪くはありません。しかしながら、人生の先輩として親が子どもに見せられる最高の姿は、親が自身の夢を追いかけている姿です。子どもは親の背中を見て育つと言いますが、自分の夢を追いかけて懸命になっている親の姿ほど、子どもにとって素敵なものはありません。夢に年齢は無関係です。いつまでも夢を見られる心の若さを保ちたいものです。

親の最大の務めは、あのちっちゃ生命を、きちんと「人間」にすることです。それにかけた無私の時間は、どの親も、子どもに誇っていいのです。その時間が無ければ、子どもは親に逆らうことすらできなかったはずです。言うことを聞かない子どもこそ、成長の証です。子育ての勲章です。そのことを喜ぶ余裕があり、自分の希望を子どもに押しつけることなく、子どもの夢に寄り添える親は、子どもにとって実に力強い味方なのです。いらぬ口出しは無用です。黙って見守ってあげればいいのです。

以上のような親の目線と同じような、いやより多くの子どもたちに接して、経験豊富な教師たちが、中学・高校の境なく、長い目で子どもたちを見て、その欠点も長所も把握しながら、子どもたちの成長を見守っているのが、中高六年一貫教育を謳っている私学のよさだと思います。

祥伝社新書から『開成・灘・麻布・東大寺・武蔵は転ばせて伸ばす』(おおたとしまさ著)という本が五月に発刊されました。

その帯には、「21世紀の『男の子』の親たちへのメッセージ」「『どう育てたらいい?』に答えます」と謳われています。

私へのインタビュー記事も掲載されていますので、お読みになって、子どもへの向き合い方のヒントを得て下さればありがたいです。

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