一句一献

およそ40年来の友人、門前善康さんが句集を出版されました。
故時実新子さんに師事したのは、1995年の阪神・淡路大震災がきっかけでした。

「冬の雲仮設の窓にチマ・チョゴリ」

と詠んだ句が、公募していた震災に関する多くの作品の中から入選。
以来、本格的に創作を始めた門前さん、既に2冊の句集を出版されてい
て「一句一献」は3冊目になります。今回は、好きなお酒を兼題(テーマ)
に6部構成になっていますが、いつもの、居酒屋さんでの門前さんの
チャーミングな横顔がそこかしこに見え隠れしていて、愉しい17音字の日
常日記になっています。

「ほろ酔いの着ぐるみを着て告白す」
お茶目なだけではありません、地元サンテレビで報道、制作部門を担当され、最前線で修羅場を潜り抜け神戸を代表するメディアの人として生きて来られた門前さん

「戦場も平和の場にも酒は在る」
どこかで、秘めた恋があったのか、なかったのか

「吟醸の恋は一生掛けて飲む」
いつもおしゃれで粋ないで立ちで、バッグから小さな文具に至るまで拘
りの人ですが、それは、大きなイベント、展覧会、音楽会など様々な場面で
も同様に、名プロデューサーとして芸術的なセンスを隅々にまで発揮され
る人でもあります。

「わたくしが私を論破する酒場」
いえいえ周りも論破してますよ、門前さん美しく脆いクリスタルガラス製の
キャタピラー、のような門前さん

「饒舌になるため酒を飲んでいる」
とんでもないです、あなた、いつも饒舌でしょう、スマホ片手に、門前さん。
生き方を重くも軽くも練り込んだ素敵な川柳作品集で、17字を駆使した
小さな宇宙で遊んでみたいなぁ、と思って、私も指を折っています。

2023-5

花森安治「暮らしの手帖」の絵と神戸 おかえりなさい花森さん

今、神戸ゆかりの美術館(六甲アイランド)で「花森安治『暮らしの手帖』の絵と神戸」が開かれています。
初代編集長で、イラストレーターとして装丁もしていた花森安治さん(1911~1978)は、神戸(現在の須磨区生まれ)の出身ですが、案外知らない人の方が多いかもしれません。
特に、今回は、その驚くべき多才な仕事ぶりと共に、故郷・神戸への思いを取り上げているコーナーもあり、その原稿に思わず読みいってしまいました。
「暮らしの手帖」(当初は「美しい暮らしの手帖」)は1948(昭和24)年に、豊かで賢い暮らしを提案する”生活総合誌”として創刊されました。その時代には、まだ当たり前ではなかった冷蔵庫、洗濯機などの家電や日用品などの「商品テスト」が目玉の企画もあり、企業広告を一切載せずに斟酌(しんしゃく)や忖託(そんたく)などなしに、客観的で中立な批評がされていました。
花森が30年間担当して描いた表紙絵の、現存する原画153点の中から、今回は36点が出展されています。パステル、水彩やクレヨンなどの画材で描写された作品は、多様でこのまま絵本の表紙になるような愉しさです。因みに、クレヨンとクレパスの商品テストの記事も展示されていて、自分が幼い時につかっていたのはどれかなと、興味深く見ました。
国内各地を取材した連載「日本紀行」第一回(1963年)は、神戸が取り上げられています。
「明るくて、ハイカラで、すこしばかりおっちょこちょいで、底抜け楽天的で、それでいて必死に生きている」町、と神戸のことを書いています。
「暮らしを軽蔑する人間は、そのことだけで、軽蔑に値する」という花森の言葉どおり、「暮らしの手帖」は、名もない人たちのありのままの暮らしを記録し続けた雑誌でした。
しかし、それは、花森安治という伝説の編集者の高い美意識に裏付けされたものであった、ということを再認識させてくれる展覧会になっています。
3月14日まで月曜日休館◯078(858)15

2020/02/26号

虹の石 ~後藤比奈夫さんのこと~

 

2020年6月5日に、俳人 後藤比奈夫さんが亡くなられました。1917(大正6)年生まれですから、103歳でした。
私が高校生の時に、現代国語の教科書で習ったことのある人でした。その俳句の世界では有名な重鎮の後藤比奈夫さんとの、間接的な出会いの始まりは、今から25年あまり前のことです。
風の強い寒い日に、老夫婦が案内所に来られ、「後藤先生の虹の石の句碑は、何処にありますか?」と尋ねられました。
その時、恥ずかしいことに、私はその存在を知らなくて、調べるのにしばらく待って頂きました。
そして、ようやく東遊園地の南東あたりにあることがわかりました。
しかし、他所から来られ、この辺りに詳しくない人が行くのはたいへんだろうと、ご一緒することにしました。

「虹の足とは ふ確に美しき 比奈夫」
と刻まれた句碑は、大きな手水(ちょうず)鉢のような彫刻作品でした。

 

句碑~虹の石~(彫刻作品)。
文学とアートのコラボレーション
造形作家 河口龍夫氏作
(神戸出身)

この句碑は、ご自身の目で確かめて、感じて頂くのが一番。東遊園地の東、フラワーロードにあります。

神戸出身の有名な造形作家、河口龍夫氏による作品で、くり貫かれた黒御影石の、底に俳句が彫られていています。
後藤比奈夫さんの俳句は、水面越しにゆらゆらと見えています。
でも、時には、空や、落ち葉や近くの大きなくすの木などが映っていますから、意識しないで歩いていると、うっかり通り過ぎてしまうこともあります。
お二人は、その美しい句碑との出会いを、とても喜んで帰られました。
後藤比奈夫さんの主宰されていた俳句の会に、徳島から参加されて、
帰路、一目「虹の石」を見ておきたかった、ということが、後に頂いた葉書でわかりました。
その後、ご縁があって、後藤比奈夫さんのお孫さんにあたる
和田華凜さんと出会い、少し俳句を習う機会もありました。
句碑で、これほど素敵な句碑は他にはないように思われて、私は今でも、あの日に偶然訪ねて来られた老夫婦に感謝の気持ちでいっぱいです。

クリスマスローズ そんなに 俯くな

六甲山にも それなりの 登山地図

集団で してゐる主張 吾亦紅(われもこう)

アネモネの 好きな彼女を 思い出す

など、4年前の後藤比奈夫句集「白寿」から、ワクワクとドキドキの作品を選んでみました。

「神戸史話」から ~”黒い死”ペスト~

世界中でコロナと闘っているような毎日。
「神戸市総合インフォメーションセンター」もついに臨時休館になり、粛々と資料整理はしながら半分は在宅勤務の指令です。
テレビ体操で身体を整え、暫く目の行き届かなかった庭の片隅で、ひっそりと咲いていたシランやクジャク草やラベンダーに感動しています。そして、普段読めなかった本と向き合っています。
4月1日に亡くなられた、文芸評論家であり、郷土の作家の発掘にも尽力された宮崎修二朗さんから頂いた「神戸史話」の中から、今の状況と合わせて興味深く引き込まれた「”黒い死”ペスト」の章を抜き書きしたいと思います。

一ネズミを見たらペストと思え一。
明治三十二年十一月、神戸市民はネズミを目のかたきにし  て追いかけた。ネズミはおそるべきペスト禍をまき散らす凶悪犯だった。
その年十一月八日夜、市内葺合区浜辺通五丁目、網干屋藤井重三郎所有の米倉で働いていた店員、山本幸一(十三歳)が、突然高熱を発し二日後、衰弱して死んだ。つづいて同区内の五人が急死。いずれも症状は同じだ。しかし、それがペストと呼ばれる恐ろしい伝染病によるものとは、だれも気がつかなかった。
山本少年の死体解剖で、真性ペストとわかってから、神戸市民は”黒い恐怖”にちぢみ上がった。県知事は十一月十七日、県報号外で予防を告示。神戸港和田岬の海港検疫所で出入船舶の検疫を強化、乗降客の臨時検疫を行なった。汽車の乗客にたいしても三ノ宮、神戸、兵庫の各停車場に防疫班を出張させて検疫。
……
犠牲者とひろがった。葺合区を中心に、……元町、栄町など十一月中の患者二十二人。うち九人が死に、新聞は連日「黒死病」を報じた。
皮肉なものである。日本最大の貿易港にのし上がり、流行の窓口だった神戸が日本で初めてペストの侵入を許した。コレラは明治十年以来、幾たびかの大流行を体験ずみである。だから、前年コロンボ、シンガポールなどにペストの流行を伝えられたときから。水ぎわ作戦に徹底を期した。同年五月、米船ペルー号が神戸へ入港、船内でペストが発見されると、完璧な足どめ作戦で”撃退”に成功してひと息ついた矢先だった。
……
神戸全市に非常事態宣言が発せられ?「ネズミ一匹五銭で買い上げます」のようなビラ五万枚が配られた。同時に、菌が足につくというので”はだし禁止令”が出され、古タビを集めて半強制的にはかせられた。
……
そうしているうちにも、ペストは大阪阿部野橋へひろがり、十二月には岐阜、沼津と東斬。

カミュの「ペスト」よりも、はるかに真実味のある正確な歴史の記録です。
「神戸史話」編集 落合重信 有井基
昭和四十二年発行

ペスト騒動のその後、昭和四十二年には内務省から”飼いネコ奨励”の通達が書く府県に出されています。
これは、120年ほど前、日本で最初にペストが上陸した神戸での様子です。慌てた当局の対策がネズミ退治で”ネズミ成金”も出た、というまさしく悲喜劇が、つぶさに記されていました。
カミュの「ペスト」(1947年発表、ペストが蔓延して閉鎖された都市の人間模様が描かれている)とあわせて読んでみると一層興味深いです。

絵と会話する人 太田治子さん

神奈川県生まれの作家、太田治子さんが神戸に来られたのは、大型台風がやって来るという前の日でした。
HAT神戸にある施設から、翌日は長田の図書館、3日目は六甲山の山懐に、と嵐を縫いながらの講演会も含め、3日間で約220人の方々がお話に耳を傾けられました。
 太田さんは、「湘南幻想美術館」-湘南の名画から紡ぐストーリー-という本を出されたばかりで、この本の中の作品を朗読をされる、という場面もありました。
幼い時から、「泰西名画集」が遊び相手だったという太田さんは、美術番組の草分けで現在も根強い人気の、NHKの「日曜美術館」の初代アシスタントを3年間務められています。
湘南にある美術館の名画から、太田さんが気ままに空想して紡がれたストーリーが収められている美しい本には、「世界の名画のささやく声は、その絵を最も愛する治子さんの耳だけに聞こえる。」という瀬戸内寂聴さんの愛情あふれる言葉が、帯で寄せられています。
一書くことがこんなに楽しくてよいのだろうか。毎回、空想のお話を書きながら、私はその幸福感に包まれていた。
と前書きに書かれています。
神戸滞在最後の日に、須磨浦公園をご案内しました。
「須磨の海」という浅井忠の作品の、描かれた場所に行ってみたい、という太田さんのご希望でした。
目の前に淡路島を望み、畿内の西の端である山並みが鋭く海に落ち込んでいる”絵の中の風景”を、感慨深くいつまでも眺めてられる太田さんには、浅井忠の絵の中に描かれている帆掛け船が見えていたのかもしれません。
私もまた、この太田さんの幸せそうな後ろ姿を、いつまでも眺めていたい、と思いました。

田辺聖子さんの事

1964(昭和39)年「感傷旅行」で芥川賞を受けられ、2000年には文化勲章を受賞された田辺聖子さんが、2019年、6月6日に91歳で亡くなりました。
田辺さんは昭和3年に大阪の福島にあった写真館の長女として生まれました。1945(昭和20)年6月の大阪大空襲で自宅が
焼失、19歳から金物問屋さんに勤めて家計を助けました。
傍ら27歳のとき、学生や社会人、主婦など幅広い人たちが小説や詩やエッセイを学ぶ大阪文学学校へ通い始めています。
実は私も、1994年から、三宮の案内所の勤務を終えてから、大阪文学学校の詩、エッセイのクラスに数年間通って、書くことの勉強をしました。日本で一番古い、働く人のための文学修行の場であるということと、この学校から田辺聖子さんという偉大な作家が生まれた、ということが、学校を選ぶときの大きな動機になっていたことを、今でも思い出します。
田辺さんの当時の担当講師(文学学校ではチューターといいます)が、毎週一回の、生徒の作品を持ち寄りお互いに合評をする授業にも100枚近くの作品をエネルギッシュに提出されていた、と言われていますので、どれ程の体力と気力で書かれていたか私には容易に想像できました。
1966(昭和41)年、神戸市兵庫区荒田町の開業医川野純夫さん(2002年死去)と結婚して、いきなり四人の子どもを持つことになりましたが、婚姻届けを出さず事実婚を通されていたとの事を知り、時代の先取りをされていた生きざまも知り驚きました。
「深いことを軽く、やさしく、面白く」が書く時の姿勢で、
軽妙な文章に加えて、人間への眼差しのやさしさを貫かれていたことは、「新源氏物語」を再読してみてもよくわかりました。
神戸市内の病院で亡くなられたその翌日、お身内でのお別れ会をされる所に、私も偶然行き合わせる事になりました。
大阪文学学校への入学から、田辺聖子さんに導いてもらったことも、また、最後、田辺聖子さんが眺められていたであろう同じ神戸の街の景色の中に、自分がいたことが不思議でなりません。
「時代の精神を歌う中島みゆきと、時代のライフスタイルを歌うユーミンを足したような人」が田辺聖子さんだと、いつもは辛口のライターさんが書いていたコラムに、深く頷きました。

 ー空から比較ー

神戸港開港150年目を記念して作成された絵図が、現在、神戸市役所1号館24階展望ロビーに展示されています。
開港当時と現在の神戸の絵図を描いたのは、鳥瞰図絵師の青山大介さんです。
昨年の春から約9ヶ月をかけて作成された鳥瞰図です。
「昔」には、生田川が流れ、生田神社には参拝している人たちがいて、まだまだ建設途上の居留地の様子がよくわかります。
また、港内には、イギリス、アメリカ、フランスなど18隻の外国艦船が停泊していて、それぞれの国旗やスクリュー船か外輪船かの区別からマストの数まで、資料に基づき丹念に描き分けてあります。
「今」の絵図には、完成が予定されているビルや施設、入港する予定の客船なども盛り込まれています。
そして、中には、西国街道に潜んでいた追いはぎなど、作者だけの遊び心がたっぷりの隠し絵もちりばめられています。
青山さん自身が大震災を経験したのは18歳の時でした。
あえなく壊れ、なくなった街に対する思いは人一倍です。自分の絵図で、故郷神戸の復興を描き残しておきたい、そのことで街に恩返しをしたい、と気の遠くなるような精緻な鳥瞰図を描いています。
青山さんの作品を前に、150年の歳月の歩みに思いを馳せてみてください。

Dジャーナル2017-6-23号では青山大介さんの鳥瞰図を使い次のような紙面を制作しました。

六甲山が大好きな人たち

阪急六甲駅を降りてすぐ北側に、神戸学生青年センターがあります。
古本市や集会、セミナーなどが行われている施設で、1972年に開館しました。
ここで、今年の4月から月に一回「六甲山専門学校」が開校しました。
といっても堅苦しい学校ではなくて、気軽に参加ができる楽しい講座です。
「もっと六甲山を知って欲しい。そしてもっと六甲山を楽しんで欲しい」という熱い思いで3人の六甲山が大好きな人たちが立ち上げた学校です。
長年、六甲山関連の貴重な絵はがきや資料を収集されている前田さん、2009年から灘区でアウトドア用品の「白馬堂ROKKO」を経営されていて「六甲摩耶」の地図の著者である浅野さんと、経験に基づいた生きた知識で、六甲山のガイドブックや自然観察本を数多く出版されているフリーライターの根岸さんが先生役です。
約20人くらいで、缶ビールやおつまみを食べながらの授業風景です。本やインターネツトでは得られない情報が、和気相合とした寺子屋のような雰囲気の中で学びとれる授業になっています。
参加者は、神戸だけでなく大阪や明石など近隣からも参加しています。
六甲山が好きな人たちによる講座に身を置いていると、六甲山がさらに好きになってきました。
参加費は一回1000円です。7月の講座はすでに定員に達していますが申し込みや問い合わせは白馬堂まで。
火、水曜休。
☎(841)89862016-6-22

沖縄の島守 島田叡(あきら)氏のこと

島田叡(あきら)

須磨区出身、

西須磨小学校、

兵庫高校卒

 

 

一島田叡氏顕彰碑 除幕式に参加して一
神戸で生まれ、神戸で育った島田叡。第二次世界大戦末期、国の命令で沖縄に赴いた最後の知事です。
島田が内示を受けたのは昭和20年1月、その3ヶ月前に那覇市は空襲でほとんどの家屋が焼きつくされていましたから、当地へ赴くことは死にに行くようなもので、家族の反対を押しきり、単身での赴任でした。
米軍上陸の目前に、飢える県民のために台湾米を確保に奔走したり、疎開に尽力したりと住民と苦難を共にし、米軍の砲撃の下県職員らと壕を転々と敗走しました。
6月、後方に大平洋が広がる激戦地、糸満市の摩文仁のあたりまで追い詰められて消息を絶ちました。
島田の没後70年を前に、2013年から協力を呼び掛けられて、三万人以上の署名と一千万円近くの寄付が集まり、「顕彰碑」が建立されました。
6月26日気温31度の南国の夏空の下、那覇市奥武山公園(おうのやまこうえん)で、井戸敏三兵庫県知事と翁長雄志沖縄県知事、久元神戸市長、また島田の出身校旧制神戸二中(現県立兵庫高校)の関係者ら約400人が出席して除幕式が執り行われました。
那覇高等学校合唱部(女声)による献奏が流れてくると、ぬけるような青い空とは裏腹の、美しく物悲しい旋律に思わず涙が溢れてきました。
この日は、島田叡が僅か五ヶ月足らず、沖縄最後の官選知事として赴き、もはやこれまで、と自決したといわれている日です。

4年前より兵庫県教育委員会から中学生に配布している道徳の副読本「心かがやく」では「戦場の県知事島田叡さん(陳舜臣氏執筆)」を掲載。中学生がいる家族の人はぜひ一緒に読んでみてください。市内各図書館でも閲覧できます。

2015-7-17

牧野富太郎のこと

六甲山頂(931m)にほど近く、海抜865mのところに「六甲高山植物園」はあります。年平均気温は9℃、真夏でも早朝は25℃位という涼しさです。
高山植物を中心に、合歓の木やササユリといった六甲山の自生植物、約1500種が展示栽培されています。中央アルプスなど、高い山に登らないと出会えないような植物を、間近で見ることができる貴重な場所です。 同植物園は昭和昭8年に開園。今年で、80周年を迎えます。”日本の植物学の父゛といわれる牧野富太郎博士の指導の下、設計しました。
ここで少し、牧野富太郎のことにふれてみましょう。今年、生誕150年になる牧野は、高知県の裕福な商家に生まれました。が、調査研究に惜しみなく財産を注ぎ込み、結果的に多額の借金で困窮を極めることに。その時、手を差し伸べたのが、神戸の素封家で、南蛮美術の収集家としても有名な池長孟です。大正5年、会下山(兵庫区)に、牧野の標本を収蔵する「池長植物研究所」が出来ました。現在は、研究所跡の碑と、牧野が投宿していた「会下山館」の門柱だけが残っています。 牧野は、また、昭和天皇の標本を最初に鑑定した人でもあります。

私が今でも記憶に残っているのは、昭和56年ポートビア博覧会の時に、昭和天皇が六甲高山植物園を訪れられたこと。彼とゆかり深い植物園だから足を運ばれたのかどうか…、知る由もありません。 これからの同園はヤマユリ、キレンゲショウマ(石鎚山などに群生)などが見頃になります。涼しい植物園で、お花の大好きなスタッフのガイドを聞きながら、また、牧野富太郎という植物学者が、大正、昭和と残した神戸での足跡にも、思いを寄せてみてください。彼の学問の集大成「牧野日本植物圖鑑」を持って…。