五色塚古墳

神戸市内の人なら、小学校の時の見学などで一度は訪れたことがあると思われる「五色塚古墳」は、4世紀後半に築かれた、兵庫県下最大の前方後円墳です。
明石海峡を往来する船を眼下に見下ろすことのできる絶好の高台に位置していますが、当時は、周辺にこのような巨大な古墳を支えたと思われる集落などはなくて、ここに突如として築かれた「五色塚古墳」には、いまだに多くの謎が残されたままです。
墳丘は、全長194メートル、3段で築かれている巨大な古墳で、円筒埴輪約2200本がずらりと並べられていた、と推定されています。また墳丘の斜面には、全面に約223万個の丸い石が葺かれていたようで、この石は、対岸の淡路島から運ばれてきたとみられています。
また、「五色塚古墳」は「偽墓」ともいわれてきましたが、墓自体は本物の可能性も高く、この地の有力者が自発的に造ったのではなく、ヤマト政権とのつながりが強い人物で、周辺を支配した有力者の墓ではないか、と考えられています。
1921(大正10)年に、西側にある小壺古墳とともに国の史跡に指定されてから、100年をむかえ、「国史跡 五色塚古墳あゆみ」の企画展が、神戸市埋蔵文化財センターで開かれています。
まずは、墳丘に立ちその雄大な景色を眺め、豪族気分になってから、様々な疑問を持ったまま、謎解きゲームの感覚で企画展に足を運んでみてください。

「五色塚古墳」4月~11月無休、山陽電鉄霞ヶ丘から10分
☎078-707-3131
「神戸市埋蔵文化財センター」月曜日休館、市営地下鉄西神中央駅から8分、
☎078-992-0656
いずれも無料
2021-6-25

観光茶園「静香園」に行ってみよう!

 

急に思い立ち、緑色の空気を吸いたくなり、三宮から市バス2系統に乗り約15分。バス停で降りて犬のお散歩をしている人に「静香園」の方角を尋ねてみると、坂道一時間はかかって大変よ、と言われ、まずは怖じ気づきました。

 

住宅街の坂道の途中にある馬頭観音で有名な「妙高院」を横目に、摩耶山への登山道”青谷道”に入り、かなりの急な坂を、とにかくジグザグに歩きます。
川のせせらぎとウグイスの美声を心地よく聞きながら、約20分で、目指す「静香園」に着きました。
ここは神戸市内唯一の茶畑です。
明治の頃には、灘区原田通から中央区割塚通一帯が茶畑で、神戸の茶は横浜の生糸と並ぶ重要な輸出品で、神戸港か輸出額の半分を占めたこともありました。1976(昭和51)年に、ここ青谷に茶畑が開かれて、およそ100年ぶりに神戸に茶畑が復活したことになりました。
広い敷地に、まろやかな味が特徴のヤブキタ(品種)が約五千本が栽培されています。
入園はかりがね茶(茎茶)とお菓子付きで600円です。
初夏の風物詩となっている絣の着物に豆絞りを身にまとって新芽を摘み取る、茶摘み体験は、今年はまだ決まっていないとのことです。
しばしマスクを外して、深呼吸をし、深呼吸をして身体の隅々にまでみどり色の空気を吸い込んでみてください。
神戸の街に住み、憩う贅沢さを実感できる「静香園」あたりです。健脚の人は、青谷道をどんどん歩いて、摩耶山山頂までトライしてくださいね。
■「静香園」土日祝日のみ営業
予約は078-222-0007

2012-4-23

須磨浦ロープウェイがリニューアルしました!

2020年11月4日から須磨浦ロープウェイのリニューアル工事のため、須磨浦山上遊園も休園していましたが、いよいよ2021年3月25に全面営業再開します。
須磨浦ロープウェイは1957(昭和32)年9月に開業しました。
ゴンドラ2台(定員30人)で、高低差約180mを3分15秒で結び、2019年度は約14万人が利用していました。
毎年12月に安全のためゴンドラやワイヤなどの定期点検を更新していましたが、制御装置は開業時のままの手動を使っていました。しかし、今後も同じようなメンテナンスを続けることが難しくなってきたので、自動化が決まりました。
開業から63年間使い続けられた制御装置は新しく自動式になり、麓の山陽電鉄須磨浦公園駅と須磨浦山上遊園は、15秒短縮されて約3分で結ぶことになります。
2007(平成5)年に新造された3代目のゴンドラ「うみひこ」(白)、「やまひこ」(赤)はそのままで、海と山と空の景色を眺めながら、山上の昭和レトロな世界まで運んでくれます。
 ”乗り心地の悪さ”で有名な「カーレーター」や、「回転展望台」はそのままですが、山麓側の売店や乗車券売り場は改装されて、神戸ならではのスイーツやゴンドラなどをかたどったキーホルダーやボールペンも新たにデザインされて販売されます。
これから桜だけでなく新緑も楽しむこともできます。また来年の元旦には、初日の出も楽に楽しめそうですね。
手動式の時とは違った乗り心地も体験してください。
3月~10月:10時~18時。毎週火曜日休園
◯078(612)2067

2021-3

花森安治「暮らしの手帖」の絵と神戸 おかえりなさい花森さん

今、神戸ゆかりの美術館(六甲アイランド)で「花森安治『暮らしの手帖』の絵と神戸」が開かれています。
初代編集長で、イラストレーターとして装丁もしていた花森安治さん(1911~1978)は、神戸(現在の須磨区生まれ)の出身ですが、案外知らない人の方が多いかもしれません。
特に、今回は、その驚くべき多才な仕事ぶりと共に、故郷・神戸への思いを取り上げているコーナーもあり、その原稿に思わず読みいってしまいました。
「暮らしの手帖」(当初は「美しい暮らしの手帖」)は1948(昭和24)年に、豊かで賢い暮らしを提案する”生活総合誌”として創刊されました。その時代には、まだ当たり前ではなかった冷蔵庫、洗濯機などの家電や日用品などの「商品テスト」が目玉の企画もあり、企業広告を一切載せずに斟酌(しんしゃく)や忖託(そんたく)などなしに、客観的で中立な批評がされていました。
花森が30年間担当して描いた表紙絵の、現存する原画153点の中から、今回は36点が出展されています。パステル、水彩やクレヨンなどの画材で描写された作品は、多様でこのまま絵本の表紙になるような愉しさです。因みに、クレヨンとクレパスの商品テストの記事も展示されていて、自分が幼い時につかっていたのはどれかなと、興味深く見ました。
国内各地を取材した連載「日本紀行」第一回(1963年)は、神戸が取り上げられています。
「明るくて、ハイカラで、すこしばかりおっちょこちょいで、底抜け楽天的で、それでいて必死に生きている」町、と神戸のことを書いています。
「暮らしを軽蔑する人間は、そのことだけで、軽蔑に値する」という花森の言葉どおり、「暮らしの手帖」は、名もない人たちのありのままの暮らしを記録し続けた雑誌でした。
しかし、それは、花森安治という伝説の編集者の高い美意識に裏付けされたものであった、ということを再認識させてくれる展覧会になっています。
3月14日まで月曜日休館◯078(858)15

2020/02/26号

神戸港を支えた人のこと ~網屋吉兵衛~

 

神戸の開港にあたって、それほど表舞台には出てこなくとも大切な人がいます。
網屋吉兵衛もそのひとりです。19世紀半ば頃には、兵庫津(ひようごのつ)の辺りには、船底に付いた貝殻や船虫などを焼いて船を整備する「船たで場」(現在の乾ドッグのような所)がなくて、四国の多度津まで船を曳いていかなければなりませんでした。
それを聞き及び、1854年に、二つ茶屋村の呉服商、網屋吉兵衛が船たで場を造ることを代官に願い出て許可を得ました。
船たで場は、工事を始めてから3年余りの月日と、巨額の資金が費やされてようやく完成しました。しかし、家族からの反対にあったり、また資金の工面のために苦しむことにもなりました。1864年、徳川家茂に謁見をした際には、神戸港の開港を
進言していますので、築港の先駆者と言えるかもしれません。
「網屋吉兵衛顕彰碑」は、1979(54)年に第一突堤に設置されましたが、ウォーターフロントの開発工事の為、当時の船たで場に近い所に移設されました。
莫大な私財をなげうち、神戸港開港に陰ながら尽力した人のことを、忘れてはならないと思います。
2020-12

布引の滝で”野点”しませんか

 

新神戸駅から山道を約20分ほど登ると、「布引の滝」4つの滝で一番大きな雄滝(おんたき)に着きます。
市街地からこんなにも近い所に、姿の美しい、雄壮な滝の景色に出会えるのは、全国的にも珍しいので、近年は日本各地からのみならず、欧米を中心に世界各地からの観光客が、「神戸の秘境」として訪れています。
さて「神戸布引 野点」として初めて開催されたのは、、2017(平成30)年5月でした。新緑と紅葉の頃に計画されて今回は4回目となります。
堅苦しくてハードルの高い”お茶会”ではなくて、コーヒーを飲むような感じで気軽に参加ができて、なお、茶事に親しんでもらいたい、と有本先生(表千家)が茶席を担当してくたさいます。
雄滝の水の音がBGM、という贅沢さです。
咳払いをしても、お茶碗を何回どちらに回しても、気兼ねをする事なく、登山の服装で参加してくださいね。
まずは、季節のならではの和菓子をいただいてから飲む「お茶」の美味しさ、は格別です。
行きは滝を眺めながら、帰りは、中央区では屈指の紅葉の名所の徳光院を抜けて下山が、おすすめです。
駆け足で過ぎて行く季節を、こんなにも近くで楽しむことができます。
お申し込みは、チラシを参照してください。

五本松かくれ滝からハーブ園散策

新神戸駅から布引の滝を横目に、今回はその奥まで足を伸ばしました。見晴らし展望台から、”猿のかずら橋”辺りは、木陰で歩きやすく心地よい道です。
と、突然水音と共に滝が現れました。これは通称「浅見の滝」と呼ばれていますが、「五本松かくれ滝」が正式名称です。中央区にある選定委員会がもうけられ、887件の候補から正式に命名されたのは今から13年前のことです。布引貯水地からオーバーフローした時に放水路として流れている滝ですので、いつも見られる訳ではありません。
←めったに見られない「五本松かくれ滝」

 

そこから、美味しいすき焼きが名物の「紅葉の茶屋」で悦子女将さんに挨拶をしようと立ち寄りました。
早朝8時前ですが、すでに数人の方が茶屋前の広場で宴会をされていました。この辺りの山道をきれいに掃き清めてくれている人たちでした。ここは、女将さんの笑顔がすき焼き以上に人を惹き付けているようです。
さて、ここから、桜茶屋を通り天狗道の手前の近道を歩きました。天狗道は休日ともなると、全山縦走中最後の難関とも言える道の訓練のために、果敢に挑む人が絶えません。がこちらの道はハーブ園への近道ですが、ほとんど出会う人はいません。
           ↑ハーブ園でのドイツ祭り

さて山道から、ハーブ園訪れてみると、大勢のマスクをした人で賑わっています。中庭のテーブルやベンチで各々にお弁当やドイツビール、ハチミツのソフトクリームなどを食べながら楽しまれていました。
ハーブ園内の坂道で、シュウメイギクやコスモスやレストランで出される野菜を見ながら、芝生広場まで来るとセンニチコウが満開でした。ハンモックでお昼寝ができるようになっています。
街中からすぐ背後に、素敵な癒しのゾーンがあるしあわせを改めて感じました。

2020-10

「ミナ ペルホネン / 皆川明 つづく」展

デザイナーの皆川明さんが設立したブランド、”ミナ ペルホネン”はフィンランド語で、私の蝶、という意味です。
ファッションからスタートした活動は、家具、絵画、建築模型から詩作まで生活全般に広がり、様々な角度から、皆川さんの25周年に亘る仕事が紹介されています。
展覧会の会場入り口の壁一面には、50センチ四方のクッションが330個飾られていて、その圧巻の風景に、まずは驚きました。いつも見慣れた近代美術館のコンクリートの壁に、花が咲き乱れているかのようです。
また「洋服の森」のコーナーには、1995年から2020年までの洋服390体以上が年代ごとではなく展示されています。短いサイクルで消費されついく服には背を向けて、時代を経ても長く愛用される服を目指している、という皆川さんの哲学が現れているコーナーです。
私が今回の展覧会で最も感動したのは、「洋服と記憶」のコーナーでした。
所有者からお借りした服15点を、それぞれの所有者の思い出と共に展示されていました。照明の落とされたその空間で、時に洋服が単なる洋服ではなく、その方々の人生そのものになっていることに、深く感動し自然に涙がこぼれおちました。
この展覧会では、皆川さんのイメージしたデザインは、多くの卓抜した職人さんの手により引き継がれて制作されていることが、丁寧に語り継がれています。
この時代に、今一度、丁寧に誠実に暮らし生きていくことの意味合いを問われた、かのような展覧会でした、
ミナ ペルホネン/皆川明 つづく
兵庫県立近代美術館
2020年7月3日(金)~11月8日(日)
日時指定の完全予約制
0782620901

 大倉山公園と伊藤博文の銅像

このコロナ禍で神戸中央図書館によく足を運んだ、という人も多かったかと思います。さて、図書館や文化ホール、散歩やランニングもできるふるさとの森、中央体育館まで含む「大倉山公園」についてご案内したいと思います。
この辺りは、もともと「広厳寺山」とか「安養寺山」と呼ばれていて、「大倉山」といれるようになるのは明治に入ってからのごとです。
ここに、謎の建造物があります。約9メートル四方で高さ4~5メートルの正方体にピラミッド状に石段が積まれている、立派な主のない台座です。
この台座の主は、伊藤博文でした。明治憲法を起草し初代内閣総理大臣を務め、また初代の兵庫県知事も務めた人ですから県民にとってもなじみ深い人です。最初の伊藤の銅像は、1904(明治37)年に湊川神社に設置されましたが、日露戦争後に日本がロシアと結んだ講和条約に怒った民衆が像を倒してしまいました。
しかし、伊藤が1909(明治42)年にハルビンで反日派の韓国の青年に暗殺されると、また銅像再建の話が持ち上がります。
それは、明治の動乱期に御用商人として活躍し一代で財を成した実業家、大倉喜八郎によるものでした。
長らく伊藤と交流があり、こよなく尊敬もしていた伊藤が、気に入っていた大倉山の地に立派な台座を造り、銅像を建てるので、伊藤の功績を顕彰するための公園として市民に開放してほしい、と「大倉山公園」が開園したのは、1911(明治44)年のことでした。
しかし太平洋戦争で金属供出が求められて、また伊藤像はなくなり、その後は再建されることなく見上げるような台座だけが残りました。
居留地にも「伊藤町」としてその名前が残されています。
が、69歳でなくなるまでの伊藤博文の波乱な人生を象徴しているかのような、巨大な「台座」です。
また、時代の激動期に固く結ばれた、実業家大倉喜八郎と、政治家伊藤博文の絆の証だった「大倉山公園」、ゆっくりと散策してみてください。

ありがとう「タンタン」 王子動物園

 

神戸市立動物園のジャイアントパンダ「旦旦(タンタン、メス24歳)」、今年の7月に、といういよいよ中国からの貸与期限を迎え、中国に帰国することが決まっています。
動物園で一番人気の「タンタン」は、2000(平成12)年7月16日、震災後の神戸を元気づけるため中国からやって来ました。
これまで、2010年、2015年と延長されてきましたが、今回は、高齢となった「タンタン」を、体への負担が少なく多くの仲間が暮らす生まれ故郷で過ごさせたい、また、高齢パンダの飼育経験も豊かなので任せてほしい、という中国側からの申し出があり、生まれ故郷にかえってもらうことにした、という動物園側の判断でした。
しかし、このコロナ禍で、中国への直行便が運休しているために、猛暑の移動で暑さに強くないパンダに負担をかけてはならない、ということで直行便が再開されてからの秋以降に帰国する見込みになりそうです。
今は、動物園での公開は、同園のサイトから申し込みの上「タンタン」と最後のお別れができるようになっています。
「タンタン」が帰国するのを前に、市内で「ありがとうキャンペーン」が展開されています。
東遊園地の「こうべ花時計」がタンタン柄に植え替えられていたり、フラワーロードや元町大丸神戸みせあたりの120枚のバナーも「ありがとうタンタン」のデザインになっています。
またこのようなキャンペーン以外にも、神戸市民には馴染みの学習帳「神戸ノート」(長田区「関西ノート」が1952年から販売)に、約40年ぶりに新商品が出て、表紙に「タンタン」が採用されています。
「タンタン」柄の企画は昨年から企画が進められていて、表紙の「タンタン」の姿は2018年に撮影されて、岩に寝そべってリラックスするかわいい姿が収められています。
20年にわたり神戸の人たちに、元気を与えてくれた人気者「タンタン」に、別れを惜しみながら街のあちらこちらに、様々な表情の「タンタン」を見つけてみてください。
コロナのおかげで、少しお別れが延びたことに感謝しながら、街中のたくさんのバナーの中から、海苔を巻いたおにぎりにしかみえない、「タンタン」の後ろ姿二枚を探してみてくださいね??。